<二人のノーベル平和賞受賞者>

湖畔の自宅とニューヨークの会場が衛星中継でつながった。
後ろ髪を清楚な花で飾り背筋を伸ばした細身の女性がニューヨークの大画面に映し出され、「とうとう動き始めました。私たちは変革の開始を、今まさに目の当たりにしているところです」、とはっきりした英国調の英語で語り始める。2011年9月21日のことである。

クリントン元米国大統領は彼の名前を冠した"クリントン・グローバル・イニシャチブ"を国連総会に合わせて毎年9月ニューヨーク市で主催している。元・現役を含めた政界・財界・宗教界など各界の錚々たるリーダーが世界中から集められ、地球が背負う現在・将来の深刻な問題を解決する道筋を模索しようとしている。クリントン大統領の要請を受けた2011年のゲストスピーカー、スーチーさんはヤンゴンの自宅から衛星中継で参加した。

集会が終わりに近づいた頃、南アフリカのデズモンド・ツツ大司教がスーチーさんに英語で語りかける。「貴女が貴政府のトップに就任したときは、是非ミャンマーを訪れたい。楽しみにしていますよ」、これまでの経験からしてミャンマー国の大統領に就任する意欲があるという露骨な表現は政府が最も恐れ、再収監のリスクに繋がる恐れがある。そこで彼女は「私はもっともっと強くならなければ、だって是非ともデズモンドにお出でいただきたいから」と彼女が英語で応えた。

ツツ大司教が1984年。スーチーさんが1991年、とそれぞれノーベル平和賞を受賞している。まもなく80歳にならんとする大先輩から愛の告白とも取れる、十分に言葉を選んだ、愛情溢れる激励のメッセージ。それに対してその不屈の意志を鮮明に表明した当意即妙の後輩の受け答え。彼女の講演は英国国営放送(BBC)でも一部放映されており、政府当局のモニター下にあることを十分承知した上での二人の微妙なやり取り、非英米人が"勧進帳"を英語で語るモデルケースではないかと思われる。ついでにお話しすると、スーチーさんの講演に感激したツツ大司教はこの会話の直前に直截的な言葉で"アイ・ラブ・ユー"と語り、東洋人であるエレガントな女性は一瞬とまどって、"お互いに同じ気持ちです"と応対している。

 

<オバマ大統領よりの電話>

2011年11月17日、インドネシアのバリ島でアセアン10カ国首脳会議が開催された。アセアンは今ではEU、北米自由貿易協定(NAFTA)、中国、インドと比肩する経済規模となり、欧米そして日本の経済が苦悩する中、その経済成長力は世界中から注目されている。したがって、この10カ国首脳会議に附随して、例えばアセアン+3(日本・中国・韓国)のサミットも開催されており、参加各国とアセアン10カ国の個別サミット、そして各国首脳同士の公式・非公式の会談も目白押しで行われた。その中でもハイライトは翌18日の東アジアサミットで、これには米国・ロシアも含めた合計18カ国の首脳がバリ島で討議している。サミットといっても大統領・首相クラスだけではない。外務大臣・大蔵大臣・中央銀行総裁そして随行記者・メディア関係を含めると各国共に大名行列並みの現地入りである。

米国大統領専用機"エア・フォース・ワン"はハワイでの環太平洋サミット会議の後オーストラリアへ飛び、オーストラリア北部の港湾都市ダーウィンに米海兵隊2.500 名を常駐させる構想を世界へ向けて発表した。これらが中国を刺激するだけでなく激怒させることになるのだが、今は本題を続ける。そして、オーストラリアから米国大統領専用機はバリ島へ向かった。

どの欧米メディアも朽ちかけた湖畔の家と表現する。ヤンゴンの下町からタクシーで20分ほど走ったユニバーシティ・ロード24/25番地にあるのがスーチーさんの自宅である。どの欧米メディアもスーチーさんはここに15年間、自宅軟禁されていたと判を押したような表現をする。その自宅の電話が突然鳴った。といっても、ほとんどの電話は突然鳴る仕掛けになっている。電話の主はオーストラリアからバリ島へ向かう機上のオバマ大統領である。

反政府活動家とされるスーチーさんの自宅。政府から目の敵とされてきた反体制側の個人宅である。当然のことながら政府当局による盗聴という言葉が頭をよぎる。
この極秘の電話会談は20分間続いた。これがミャンマーの運命を変えることになるのだが、電話会談は10分間だったという報道もある。スーチーさんがオバマ大統領に支援を求めたのではない。大統領が逆に用心深くスーチーさんに確約を求めたのである。「ミャンマーの民主化推進に米国が介入した場合、スーチーさんはゆるぎない態度で我々を最後まで支援してくれるね」と。

この重要な電話会談の内容は一部しか漏れ聞こえてこない。だが、最後にスーチー女史は「大統領の飼い犬Bo君はいかがしています?私も犬を一匹飼っていますのよ・・」とさりげない会話を付け足している。ミャンマーの国運が掛かるこの一瞬に、このように余裕のある優雅な会話を米国大統領と直に英語で交わせる非英米人首脳は、そう幾人もいないだろう。

バリ島に到着するとオバマ大統領はヒラリークリントン国務長官を傍らに、「民主化進展の曙光が見えてきた。来月12月に国務長官をミャンマーに派遣する」と記者会見でメディア発表した。

夫ビル・クリントンの"グローバル・イニシャチブ"が9月ならば夫人のヒラリー・クリントンは12月、だがその布石はさらにその一年以上も前に慎重に用意されていた。

2010年11月9日、スーチーさんの自宅軟禁中に、政党NLDがボイコットしたミャンマーの総選挙がミエミエのスーチー外しで行われた。そしてその選挙結果は90%の議席を軍関係者が占め、欧米メディアは仕組まれたインチキ選挙と厳しく批難した

数日後の11月13日、スーチーさんは約15年間の自宅軟禁を正式に解除された。そのスーチーさんに一番最初に国際電話をかけてきた外国首脳は何を隠そうこのヒラリー・クリントン国務長官で、彼女の釈放を心から歓迎し祝福している。オバマ政権の配慮とその戦略が見えてくる。

 

<英語が堪能なスーチー>

スーチーさんは解放されると政府からモニターされることを承知の上でインターネットを自宅に設置する。ということは当時65歳のスーチーさんがその日からパソコンおよびインターネットを学習し始めたという風には読めないだろうか。そして徐々に海外からのインタビューも許るされ、西側マスコミからの電話インタビューが殺到するようになる。"自宅監禁中は海外ニュースを一日6時間ラジオで聞くのが私の義務でした"と語っている。監禁中は世界の歴史書、人物伝、宗教書、特に仏教書を読み漁ると同時に、毎日6時間欠かさずに海外の動きをラジオでチェックしていたという。読書で内面を鍛えると同時にラジオで"今"という時代を見つめるスーチーさんの強靭な精神力が見えてくる。欧米のマスコミは機会あるごとに直接電話で彼女の意見を求め、その確認を得た上でそれをインターネットに流す。その的確な即答には頭の回転のシャープさと自分の運命的な熟成した人生観が表れている。"もし"は歴史を語るときには許されない言葉だが、スーチーさんが英語を理解できなかったら、スーチーさんが英語で即答できなかったら、ミャンマーの運命は今日のような展開にはならなかっただろう。

<2014年アセアン・サミット>
話が横道にそれたが、米国大統領機がバリ島に到着する2011年11月17日、当事国を除くアセアン9カ国首脳はその日にミャンマーの宿願であった2014年第22回アセアン首脳会議のホスト国を満場一致で承認・決定した。

アセアン・サミットは今では年1回または2回開催され、ホスト国の国際空港では各国賓の到着に合わせてレッドカーペットが用意され、栄誉礼など外交上のプロトコールに則った儀式を初めとして、リムジンなど輸送手段の確保、リムジン車列移動ごとのパトカー先導・警備、交通渋滞を避けながらのルート選定、公式会場の整備、各出席者レベルごとの晩餐会、大訪問団の宿舎・ホテルの手配、個別の部屋割り、公式会議に出席しないご夫人方の参観施設日程の手配、国別の食事の希望、宗教上の食事制限、異なる宗教国への配慮、公式記者会見場の設定、マスコミ村の開設、受理したジャーナリスト人数分のパソコン準備、衛星通信施設の提供などなど準備万端には事務方の作業は途方も無く膨大なものとなる。17カ国を迎えたバリ島ではマスコミ村通信施設が不備だとの指摘も出ていた。

したがって、2年後の2014年はアセアンという桧舞台で威信と面子を賭けたミャンマーという国家が鎖国から抜け出し外交デビューの正式なお披露目となる。しかし、これは民主化とはまったく別次元での政府の事務能力・官僚組織のお手並みを世界中が査定するシビアな試験場でもある。その判定は賞賛か、あるいは失笑か。

話を戻そう。2011年11月30日に首都ネイピード入りしたクリントン国務長官はテインセイン大統領を始めとして、国会の上院・下院両議長、外務大臣など主要閣僚と実務的で精力的な会談を次々にこなしていく。大統領が民主化へ取り組む積極的な前向きの姿勢を評価すると同時に、その民主化が本物なのか、そして今後どこまでその民主化を進展できるのか、国務長官のみならず随行団の厳しい目が光る。そして米国が経済制裁を解除するための条件、政治犯全員の無条件釈放、北朝鮮との不健全な関係断絶、少数民族との和解、人権問題など要望事項を積極的に詳細に、そして具体的に話し合った。

国務長官特別機は翌12月1日ヤンゴンに移動する。この特別機には国務長官を取り巻く政府要人だけでなく、ぶら下がりといわれるマスコミ関係者も多数乗り込んでいる。マスコミ関係に触れれば、主要な海外のマスコミは近隣のバンコク・クアラルンプール・シンガポールなどにも特派員を抱えており、彼らもヒラリー国務長官を追っかけて別途応援に駆けつけている。今ではマスコミといっても、記事を仕込む記者と映像を撮るカメラマンの二人がコンビとなっている。ミャンマー政府がこれだけ大量のジャーナリストビザを発給したことはかってなく、これは大勢のマスコミ軍団からも高く評価された。

民主化新入生のミャンマー政府がこれまでマスコミを災いの元として毛嫌いしてきたのとは対象的に、特にオバマ政権は自身の大統領選時代からマスコミを巧妙に利用してきた。大きな違いである。マスコミは敵にもなるし強力な味方にもなる。だから、ヒラリー国務長官の行動、そして発言も常にマスコミを意識している。女性らしい細やかなスーツの配色も決して忘れてはいない。それだけではなく、国務長官の次、ポスト・オバマ政権を意識しているのかもしれない。

 

<ヒラリーとスーチー>

いつもはヤワな男どもは寄付けない強面でデキル女性を演じているようなヒラリーさんだが、頬を真っ赤に染め満面に笑みをたたえ、米国人らしいオーバーな仕草で両手を大きく広げスーチーさんと堅くハグする。その細身の女性を抱きしめたとき、15年間という収監にもめげず凛と背筋を伸ばしたその優雅な女性に現代の岩窟王、あるいはガンジーを見たのかもしれない。米国のファーストレディを経験し老練ともいえるこの女性国務長官がそのときの気持ちを"インスパイヤー"と表現している。感極まって心から感動したときによく使われる言葉である。その後インターネットで流れる数多くの写真では、ヒラリーさんは常にスーチーさんと腕を組むか、幼友達のように手を握り合っている。しかし、二人は今回が初対面である。

初対面で発する言葉は、政治家でなくともお互いを瀬踏みする重要な要素ともなる。夫であるビル・クリントン元大統領も夫人であるヒラリー・クリントン国務長官自身もそれぞれに何冊か本を出版している。スーチーさんは、「ヒラリーさんが書かれた書物も、ご主人の元大統領の著書も読ませてもらいました」と挨拶します。これなどは外交官顔負けの用意周到で、しかも思いやりに満ちた言葉だと解釈されます。
スーチーさんは屋敷内で自分のかかりつけの女医、スタッフ全員をヒラリーさんに紹介し、最後に自分の飼い犬まで紹介します。なんと、ヒラリーさんは持参したペット用のおしゃぶりを取り出し、 "さあ、しゃぶってごらん"とワンちゃんに差し出します。女性らしい細やかな配慮でもあり、米国国務省外交官スタッフの綿密な調査と気配りが伺われます。

その夜はスーチー宅から車で僅か3分ほど離れた米国大使館内での二人だけの晩餐会。米国はミャンマーに対して外交制裁も行っているので、大使は送り込んでいない。主のいない大使館である。ある新聞記者が要塞のようだと称した米国大使館公邸内での会話は当然傍聴設備が施されベールに包まれたままとなっている。
翌12月2日朝、まだ話し足りない二人は草花が乱れ咲くスーチーさんの庭園を手を取り合って二人だけで散策する。オフリミットのマスコミ関係者は遠巻きに見守るだけで、二人の正式な共同記者会見をひたすらに待ちわびます。

欧米のメディアが"古ぼけた湖畔の屋敷"と揶揄したそのベランダで大勢のジャーナリストを前に二人のプリマドンナが腕を取り合って記者会見に臨みます。ヒラリーさんは政治家の顔付きをかなぐり捨て女学生のようなはしゃぎよう。一方のスーチーさんは恥じらいを含んだ控えめなクラスメート。"動"と"静"が見事な調和を演じます。

スーチーさんが英国調の英語で静かに、だがしっかりと語ります。「私の国の政府内部、そして外部にいる改革論者たちを米国が支援して勇気付けて欲しい。米国国内にもオバマ政権のビルマに対する性急な肩入れに反対する人たちがいるのも十分に認識しています。ですから、その人たちの声も聞いてあげてください。ビルマは世界の二つの大国、米国か中国のどちらか一方を選択すべきではない。本日たった今、中国の外務大臣がビルマの民主化に米国が協力することに賛意を表明したことを知り、私は本当に嬉しい。このことはビルマが世界中から支援を得たということであり、特に私たちの隣国である中国との友好関係を維持していきたい」。このスーチーさんの言葉は未熟どころか、老練な政治家のセリフと言えるだろう。

ある欧米の記者は、"古ぼけた湖畔の屋敷"での二人の記者会見をまるで大統領府の雰囲気だったと感想を述べています。

その日の午後、国務長官特別機はヤンゴンを飛び立ち帰国の途に着きます。そのミャンマー滞在は僅かに2泊3日。

この日以降、雪崩を切ったように諸外国の首脳・外務大臣・政府関係者、著名ビジネスマンまでがネイピード・ヤンゴン入りしている。これに関する話は裏話も含めてふんだんに材料を用意してある。そして最も初歩的な疑問:どうしてこの国をビルマと呼んだりミャンマーと呼ぶのか、ラングーンとヤンゴンも同様。スーチーさんの父親であるアウンサン将軍はビルマ国軍の創設者でもあり国父として慕われている。そのアウンサン将軍が生み出した二つの兄と妹がどうして骨肉の争いを続けてきたのか、逆にスーチーさんはどうして一般大衆に熱狂的な支持を受けているのか、どうして今ミャンマーで民主化なのかなどのストリーは別の機会に譲るとして、話を前に進めよう。

 

<アウンサン将軍>

ヒラリー旋風が飛び去った翌日、すなわち12月3日の朝、約70名ものミャンマー人映画監督そして男優・女優の映画俳優たちがスーチーさんの庭園に集結した。1948年1月4日はビルマが英国の植民地統治から独立した日で、毎年その日は独立記念日として祝日に指定されている。その日を実現するために奔走していたアウンサン将軍はその総仕上げの6ヶ月前にラングーンで暗殺された。アウンサン将軍は1915年の生まれで、2015年2月13日が生誕100周年に当たる。その100周年記念日の前に同将軍の伝記映画を製作・完成させようとするミャンマーを代表する芸術家たちがスーチー邸に集合し、この日に製作委員会が結成された。
その芸術家たちをひとりひとり激励した後、スーチーさんは皆に一つのエピソードを披露する。

「私の父は僧院の学校に通い、英語は決して上手ではありませんでした。ヤンゴンの大学に入ると、ルームメートはドイツ系ビルマ人で非常に流暢な英語を話していました。インヤーレークの湖畔を二人で散策するとき、パパは友人に必ず英語で話して欲しいと頼み込み、英語の練習をしたそうです。父は英語が苦手だということを自覚しており、何とか克服したいと努力していました。だから恥ずかしがらずに友人に頼むことができたのでしょう。若い人たちの教育を考えるとき、その雰囲気を伝記映画に織り込んでいただけたらと願っています。」

アウンサン将軍の旧居は現日本大使公邸の近くにあり現在は記念館となっている。そこには将軍の大部の蔵書が陳列され英文の書物も散見される。

英文・漢文を芸術家レベルで自由自在に読み書きしたと思われるわが漱石先生ですら、次のようなノートを書き残している。「余がロンドンで過ごした2年ほど、わが人生で不愉快極まりない年月はなし。英国紳士の中で余は実に惨めであった。あたかも不運なワン公が狼の群れに放り込まれたようなものだった。」明治33年頃というと日露戦争の数年前である。今のミャンマーの人たちの心境とオーバーラップさせても決して失礼には当たらないだろう。最後はほぼノイローゼ状態で1902年12月5日テムズ川ロンドン港内のアルバート埠頭から日本郵船の博多丸に乗船して、留学中に購入した約400冊の洋書と共にビルマの沖合いを通り日本へ帰国する。クシャミ先生がジアスターゼを手放せなかったのも道理である。

時代も異なり経歴も異なるので単純比較はできないが、スーチーさんは1964年から1967年までオクスフォード大学セントヒューズ・カレッジで哲学・政治学・経済学を学び学士号を取得する。国連機関で働き、オックスフォードで出合った英国人チベット学者マイケル・アリス博士と後に結婚し二人の幼い息子とともにその大学町に暮らす。したがって英語力と言う点では父親をはるかに凌ぎ、漢籍・英文ともに博識な漱石先生ですらというレベルである。

何を言いたいのかというと、ミャンマーの民主化はスーチーさんが英語力を欠いていたら実現不可能だったのではというのが論点である。当然ながら逆も真ならずで、英語力さえあれば民主化は実現できたということにはならない。

だが、スーチーさんの真価はサハロフ賞(1990年)、ノーベル平和賞(1991年)、ジャワハルラル・ネルー賞(1993年)、マハトマ・ガンジー国際賞(2009年)、フランス最高位の勲章(2012年)、カナダで僅か4名しか授与されていない名誉市民、その他にも各政府、大学、国際機関が授与した数限りない勲章・メダル・賞金類が雄弁に語り証明したとおり英語力などはるかに通り越した次元での話である。