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<ミャンマーで今、何が?> Vol.9
2012.9.4
http://www.fis-net.co.jp/Myanmar
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■ヤンゴン散策
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・ミャンマーで今、何が?
■ヤンゴン散策
ヤンゴン市内を南北(上下)に走る“シュエボンター”という名前の通りがある。北端は観光名所のボージョー・アウンサン・マーケットで、南端はヤンゴン川に突き当たる。通りの両側をキョロキョロ見物しながらゆっくり歩いてもせいぜい20分の道程だ。
その北端を東西(左右)に貫通する大通りが“ボージョー・アウンサン・ロード”、そしてその最南端をヤンゴン川に沿って東西(左右)に貫通する大通りが“ストランド・ロード”と呼ばれている。
ここはヤンゴンの下町。英語ではダウンタウンと称しているビジネス街である。
ヤンゴンという都市は、英緬戦争という武力で手に入れたビルマを英国が植民地化し、港湾都市として設計し碁盤の目(英語ではチェスボード・パターン)に整備したのがラングーンである。100数十年前の出来事だ。道路はこのとおり南北にそして東西に走るので要領さえ覚えれば位置関係は把握しやすい。
この下町地区では南北の通りは基本的に3つの区画に分かれ、“ボージョー・アウンサン・ロード”から南下した北区画がアッパーブロック(上区画)、続いて“アノーヤター・ロード”で始まる中間の区画がミドルブロック(中区画)、そして“マハバンドゥーラ・ロード”と“マーチャント・ロード”に挟まれた南区画がロアーブロック(下区画)となっている。ここは完全に碁盤の目の上・中・下の3区画となっており、それぞれの境が上記の東西(左右)に走る4つの大通りである。
その“マーチャント・ロード”のさらに南に、ヤンゴン川に沿うように緩やかな曲線を描きながら東西に走るのが“ストランド・ロード”である。一般の旅行案内にはスーレーパゴダが都市作りの中心と書いてあるが、大英帝国によるラングーン経営が始まった歴史的な始点はこの“ストランド・ロード”の伝説的な“ストランドホテル”の真正面、すなわち当時はラングーン川のナンティダ桟橋から始まっている。1869年に開通したスエズ運河を通って、ビビィ汽船やパトリック・ヘンダーソン汽船会社の客船がイギリスからの、あるいは途中立ち寄ったインドからの大量の移民を乗せて到着したのがこの地点である。
この下町の最西端は“一番街”から始まり右隣が“二番街”というふうに順番に数えていくと最東端は“七十何番街”と海軍施設およびその住宅地に入っていく。不愉快な尋問を受けたくなかったら外国人は近寄らないほうが賢明だ。最西端の“一番街”から最東端の“七十何番街”まで歩いてみようという気を起こすのもあまりお勧めできない。この地方では雨の季節、酷暑の季節と猛烈な2つの季節がある。その季節だと、この東西方向の散歩は2時間以上もかかるので、賑やかな中心部だけでヤンゴン散策は止めておかれることをお勧めする。だが、このナンバー・ストリートは数字順なので土地勘を押さえるのに非常に便利だ。
英国人の街づくりは1666年9月2日のロンドン大火で焦土と化した都市再建に腕を振るったクリストファー・レン以来の伝統だ。通りの名前も下町の街路名は基本的に“ストリート”だが、町から町へ通ずる公道または郊外に伸びる大通りは“ロード”と称して区別している。
このナンバー・ストリートの交通規制は基本的に一方通行で、奇数番街・偶数番街が交互に反対方向への一方通行となっている。そして例えば“シュエボンター・ストリート”や“スーレーパゴダ・ロード”などの主要な大通りがその間に配置され、両方向通行可能の両側4車線以上の道路幅となっている。
話を最初に述べた南北に走る縦の“シュエボンター”大通りに戻す。ここは英国の植民地時代“マゴー・ストリート”と呼ばれたところで、今でもこの名前で呼ぶ年配者は多い。“シュエボンター”の西隣が“28番街”で東隣が“29番街”だ。因みにトレーダーズ・ホテルとサクラ・タワーに挟まれた大通りは“スーレー・パゴダ”大通りで、この通りも西隣が“32番街”で東隣が“33番街”となっている。こう書いてくると、何度かヤンゴン入りしている読者には“シュエボンター”通りのおおよその位置は想像いただけたかと思う。
しかし、頭の中でじっくりと散策してみたい方は、このメルマガ情報の‘Googleマップ-地図検索’青字表示の大きな地図で見るをクリックして、ヤンゴン下町を拡大して楽しんでいただきたい。
前置きが長くなったが、この“マゴー・ストリート”と昔の名前で呼ばせてもらおう。
この名前をこの地区のインド人のお年寄りに4・5回発音してもらうと“ムーガル”とか“モーガル”など種々雑多な発音が聞こえてくる。これは日本人が教科書で習うまさしく“ムガル帝国”の英語読みというか、ビルマ語発音である。これが訛って“マゴー・ストリート”に聞こえたり“ムゴー・ストリート”と聞こえたりする。その語源はもちろんモンゴルである。
お馴染みボージョー・アウンサン・マーケットを背にしてこの“マゴー・ストリート”を真っ直ぐに南下して散歩する。周りに気をとられ写真を撮りながらだけならたった20分間とは前述したとおりである。しかし、想像力を膨らませ“ムガル帝国”の時代にスリップインすると、インド亜大陸を通り越してさらにその向こうの世界、すなわちペルシャの世界、そしてアラブの世界を夢想することも可能である。ムガル帝国といえば、インド・オールドデリーのレッドフォートやアーグラのタージマハルを思い出す方もいるだろう。この二つはいずれもムガル帝国最盛期の皇帝第5代・シャージャハーンが建設した歴史に残る豪華でしかも華麗な建築物だ。
すでに“ムガル帝国”探検の旅は始まった。露店で焚かれる線香からは仏教寺院とは異なるイスラムの匂いが漂ってくる。足元に気をつけながら7-8階建てのアラビック風住宅群を見上げると、格子窓から色鮮やかな衣装を身につけた大きな瞳の乙女が下界を見下ろしている。ここではシェヘラザードのアラビアン・ナイトが息吹いている。左手のモスクに続いてイスラム風建築物が見えてくる。チョット立ち止まりアガカーン・モーグル・ホール入り口左右の記念碑を読み解くのもいいだろう。スルタン、ハジ、カーンなどそれらしき名前が刻まれている。インド伝統医薬店に脚を踏み入れアユールヴェーダの世界を覗くのも悪くない。インド風雑貨店ではヤンゴンに暮らすインド人の必需品が見えてくる。この辺りにはどういうわけか検眼して流行のメガネを誂えてくれる近代的な店も多い。入り口では超割引価格で通りすがりの歓心を買い、次々に品質の高い商品で客を喜ばせ、最終的には東京値段を上回るところまでもっていく。インド人が最も得意とするところだ。真剣勝負の値下げ交渉に挑むか、冷やかすだけに止めておくかはアナタ次第。
一昔前は、アラビアン・ナイトに出会えるのは、ウォルトディズニーの映画と相場が決まっていた。だが、ヤンゴンでは実物を堪能できるのだ。ヤンゴンには本物のディズニーランドとユニバーサル・スタジオが共存している。道行く人たちも訓練を受けたエキストラの従業員ではない、正真正銘のインド人たちで、アラブの船乗りたちの末裔である。だからアラブ人の黒々とした頬髯をニセモノだと勘違いして引っ張ってみるのは完全に失敬で、摘んでみた手首を切断という厳罰に遭ったとしても文句は言えまい。
急な階段の入り口上部に1925年とか、モスクの上部に1855年とかの建築年号が刻まれている。頭の中で計算すると前者は昭和1年、後者は明治維新が1868年だからその13年前、あるいはペリー来航が1853年でその2年後となる。この時代、インド人街がラングーンに建設され、インド人がすでにラングーンに住み着いていた証拠でもある。
前々回取上げた“ロヒンジャー”も同じイスラム教徒だが、彼らは人口が飽和状態で貧困に苦しむバングラデシュから違法に国境を越え隣のラカイン州に定住した、ミャンマー語をほとんど話さずベンガル語のみを話し、自分たちだけのコミュニティーを形成するイスラム教徒であるというのが現ミャンマー政権からの説明である。
そして公な発言は控えているが、‘彼らは貧乏人の子沢山で、気がついたら、その人口パワーでラカイン州の村落が征服されていた’と、小さな声で囁くミャンマー人もかなりいる。宗教発言は一歩間違うと命取りとなる微妙なニュアンスを含んだ危険な話題である。テインセイン大統領は後には引けない、なんと言っても一国の最終責任者である。ラカイン州のロヒンジャーは宗教問題ではないと繰り返し、あくまでも違法な経済難民だと明言する。そして、もう一方のスーチー議員は堅く口を閉ざしたままである。
しかし、ヤンゴンのインド人は植民地時代のビルマに溶け込み、そして今日のミャンマーと共存している。
それが証拠には、朝7時すぎ、托鉢僧の長い行列が打ち鳴らす仏具の鉦を先頭にこの“マゴー・ストリート”を無言で通り過ぎていく。このイスラム風共同住宅のどこから出てきたのかミャンマー人の顔をしたあるいは非インド人の東洋系の顔付きの主婦やお手伝いさんが、湯気の立ち上る炊き立てのご飯やおかずを準備して各家々の前で待つ。托鉢層が裸足なら、平信徒も履物を脱いで敬虔に喜捨を行う。ここでは仏教の世界がアラビアン・ナイトの舞台で繰り広げられ、争いもなく平和裏にフュージョンしている。
ロアーブロック(下区画)に入ると、うっそうとした大木が葉を一杯に茂らせ、アーケードを被せたように繁茂している。菩提樹の大木であったり、ローズウッドの大木である。ミャンマー人が‘パダウ’と呼び、水祭りのシンボルとし、イギリス人がパイプにしたり高級車のダッシュボードにも使用するローズウッドだ。その大木の根元上部に小さな祠を祀り、中をのぞくとヒンドゥー教の象面に長鼻のガネーシャが祀られていたり、仏教の仏陀が祀られていたりする。アラビアン・ナイトの世界に不思議な幽玄の世界をもたらしている。
日本人お得意の早回り盛りだくさんコースも海外旅行の醍醐味だが、もし時間に余裕あれば、この“マゴー・ストリート”に幾つかあるモスク(イスラム教の礼拝所。アラビア語ではマスジドという)の向かいの路上喫茶店に腰を落ち着けるのも悪くない。旅行者を一点に固定し周りの登場人物を自由に泳がせるのである。昼前の午前11時頃ならば、アザーンの呼びかけがミナレットから聞こえてくるかもしれない。一様に白い帽子に白い服のイスラム教徒たちが礼拝に集まってくる。知人を見つけて“サラーム・アリ・クム”、“アリ・クム・サラーム”の挨拶が交わされる。いずれも男性だけの世界だ。だが入り口で地べたに座り込み番号札と交換に履物を預かる下足番は間違いなく女性の仕事だ。着ている衣装もそれなりにで生活の厳しさが窺える。その子供と思われる幼い姉弟がこの女性に纏わりついている。
洗い場は中庭やモスク横に設えてある。礼拝は心を清らかにする宗教儀式だ。先ず身体の穢れを落とさねばならない。顔・頭・手足を規律に従い順番に洗浄していく。チラリと中の様子が覗けるかもかもしれない。だが、こういう厳粛な場でのカメラ撮影は控えたほうが無難だろう。大人だけでなく、まだ少年を卒業していない子供たちも、父親に連れられて誇らしげにモスクの中に消えていく。
小一時間もすると白装束がモスクから吐き出され、道路こちら側の路上喫茶があっという間に満席となる。断りもせずにアナタの小型テーブルにも相席するだろう。だが、ここで立ち上がる必要はない。人間ウォッチングのチャンスである。飲酒を禁止するムスレムの世界には甘ったるいミルクティーがぴったしだ。中には二人で一人分のミルクティーを注文し、ひとりは受け皿にミルクティーを零してそれを啜るように飲む。完全にジョージ・オーウェルの世界である。
一日5回の5分の一を今、終えてきたばかりの敬虔なイスラム教徒の顔付きは幸福感に満たされている。毛色の変わったアナタに声をかけてくるかもしれない。“エッ、日本人?”で始まってトヨタ、ホンダ、ヤマハ、ソニー、知っている限りの日本商品を賛美してくれる。だが、“そのいずれとも我が家族、親戚一同、誰一人まったく関係ありません”などとマジメに答える必要はない。日本人のパスポートを所持できることだけでも感謝せねばなるまい。ミャンマー製パスポートでは日本に入国できず、そのまま送り返されたミャンマー人もいる。隣のバンコク空港で入国許可が出なかったミャンマー人もいる。この辺りを斟酌しながら、日本とミャンマーに思いを馳せるのももうひとつの海外旅行である。
聞き取りにくい英語ではあるが何とか話は通じる。受け皿のインド人は日本事情に詳しい。そして話に熱を帯びてきた。“東京の路上に捨ててある粗大ごみでまだ使えるものが沢山あると聞いた。テレビでも、ステレオでも、パソコンでもモデルが少し古いだけでまだ立派に作動すると。次回ヤンゴンに来るときは、これらを持ってきてもらえないか。日本製だったら、モデルが少々古くても中国製やインド製に勝てる”と彼は確信を持って言う。アナタはこの辺りから考え込んでしまう。せっかく知り合った日本贔屓のこのインド人と友情を今後も育てていくべきかどうか。
日本の教科書ではインド人口の約80パーセントはヒンドゥー教徒とされている。これは日本人の常識だが、これはあくまでも現代の話である。
第二次世界大戦後の1947年8月15日、インドはイギリス連邦自治領としてイスラム教が多数を占める東西パキスタンと分離独立した。という意味は、イスラム教徒はパキスタンとその後バングラデェシュに分離されているので、現代のインドでイスラム教徒が約13%と少数派であるのは事実だ。だが、インドの独立以前はヒンドゥー教徒とイスラム教徒が共存しており、しかも、ビルマの時代には“ムガル帝国”の時代である。だから、“マゴー・ストリート”がラングーンに存在したのだ。
“ムガル帝国”とは16世紀前半から19世紀中期にかけて、インド史上最大のイスラム王朝である。このムガルという語はモンゴルに由来する。今回のテーマに取上げたヤンゴンの“マゴー・ストリート”は英国の植民地政策でインドから持ち込まれた“ムガル帝国”を意味する。したがって、その当時も、そして現在もミャンマーの人たちが“インド人”と言うときの語感には先ず間違いなくイスラム教徒のインド人というニュアンスが先に浮かび、日本人が抱いているヒンドゥー教徒のインド人は少数派と化してしまう。ミャンマー人と日本人でインド人解釈に誤解を生みやすいところでもある。
これは歴史の綾で仕方がないと言い切ればそれまでだが、ミャンマーの歴史を理解するにはこの“マゴー・ストリート”から東へ“スーレーパゴダ・ロード”までの区画を散歩すると良い。“ムガル帝国”の遺物がいたるところに見受けられ、その末裔が街角を闊歩している。くどいようだが、インド人にヒンドゥー教徒とイスラム教徒が存在し、この古きよき港町ではそのイスラム教徒の時代の影響が強いということを強調して今週のメルマガを閉じたい。
今週号は<多様な民族を抱えるミャンマー>のお約束をしている続編、インドとミャンマー関係の導入部として参考にしていただければ幸いです。
今、ヤンゴンはモンスーン雨季の真っ盛りである。暗雲が空を覆うと気温が下がり風が立つ。あっという間に激しい雨が地面を叩き、水はけの悪いヤンゴン川近辺の下町は、一変して水の都ベニスに変身する。
その“マゴー・ストリート”で一本の傘を手に入れた。大型のパラソルでゴルフ場でも使えそうだ。しばらく使用する内、奇妙なルールが見えてきた。この傘を持って出かけると決して雨に降られないということだ。そしてもうひとつ、これが大事なのだが、この傘を持たないで出かけると必ず雨に降られるという事実だ。これが見事に正確なので、このアラブ街で購入した傘を密かに“アラジンのパラソル”と呼ぶことにした。クレジットカードは今のヤンゴンではあまり役に立たない。
‘出かけるときには忘れずに’のコマーシャルは、6月から9月一杯降り続くヤンゴンの雨季に、この傘にピッタリだ。否、それだけではない。ヤンゴンの酷暑は2月後半から5月かけて襲ってくる。であれば、このパラソルは日傘としても有効だ。
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