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<ミャンマーで今、何が?> Vol.84
2014.03.05

http://www.fis-net.co.jp/Myanmar


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■キプリングからオーウェルまで

・01:東は東、西は西

・02:キプリングのビルマ滞在はたったの3日間

・03:サボイホテル

・04:キプリングの日本訪問

・05:ジョージ・オーウェルの登場

・06:ストランド・ホテル
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世界の翼が、いまミャンマーを目指す。

と言ったらオーバーだろうか。いや、そうとは思えない。世界の豪華客船すらヤンゴンの深海港ティラワに続々と入港しているのだから。

だから、NLM紙(国営日刊英字紙)にも最近はGlobetrotter(世界漫遊旅行家)という言葉が頻繁に見受けられる。

その機内誌でビルマ案内をしてくれるノーベル賞受賞者がいる。スーチーさんではない。こちらは英国人で初めてノーベル文学賞を受賞したラドヤード・キプリング(1865-1936年)だ。夏目漱石が1867-1916年の生涯だから、20年さらに長生きしたとはいえ、まさに同時代人だ。

機内誌だけではない、一流ホテルやレストランで手にするミャンマー案内の情報誌にも彼の言葉がしばしば登場し、欧米人(特に英国人)はそこに旧き良きビルマを夢想する。だが、ミャンマー人の心境は複雑だ。
今回は、彼の残した言葉をとっかかりにいまのミャンマーを覗いてみたい。



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01:東は東、西は西

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彼の残した言葉で、最も有名なのが“東は東、西は西”のバラードではなかろうか。短く覚えやすい言葉だけに多くの人が一度は耳にしたことがあるだろう。これだけだといろんな解釈が可能だが、たいていの西欧人は深遠なインド思想を理解できないまま、中国や日本という東洋思想に至っては頓珍漢なまま、この惹句で納得してしまう。だが、事はそう簡単ではない。この言葉には次の句が続く。“そして両者は決して相見えることなし”さらに次の句でダメ押しの完結となる。“神の偉大な審判の席に天と地が並び立つまで”
これは1892年の作品だが、クリスチャン思想の‘最後の審判’が出てくると、なるほど彼の立場は西方にあったと思い知らされる。



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02:キプリングのビルマ滞在はたったの3日間

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キップリングはインドのカルカッタ(現コルカタ)から日本へ向かう途中3日間だけビルマに立ち寄った。1989年3月のことである。その一日をモールメインで過ごし、そこのチャイッタラン・パゴダから夢想して“マンダレー”という詩(バラード)を書き上げた。
これが今でも有名な“Road to Mandalay(マンダレーへの道)”のバラードで、イラワジ川の主にバガン−マンダレー間で多くの欧米人旅行客をひきつけている豪華客船の運航会社の名前でもある。その経営は、豪華な汽車の旅を演出し、ヤンゴンのシックなガバナーズ・レジデンス・ホテルのオーナーでもあるオリエント急行鉄道会社である。

この“Road to Mandalay(マンダレーへの道)”という言葉はキプリングを離れて、すでに一人歩きしている。キプリングはマンダレーやアッパー・ビルマまで足を伸ばさずにこのバラードをものにしている。繰り返すが彼のビルマ滞在は生涯たったの3日間だけで、その訪問地もロウアー・ビルマに限られていた。



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03:サボイホテル

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シュエダゴンパゴダから程遠くない北西方向にドイツ人が経営するサボイホテルがある。こじんまりとしたプール付きのホテルだが、欧米人に人気のある瀟洒な良いホテルだ。

そこのダイニングがキプリングの名前を冠した食堂となっている。特徴あるキプリングの分厚いメガネを掛けた大きな肖像画があなたを見下ろすように迎えてくれる。ついでに言うと、このオーナーはミャンマーで成功した船員養成派遣会社で、そのこじんまりとした‘キャプテンズ・バー’はシックで、そこで聞く週末のジャズ生演奏は船乗りでなくても杯を重ねたくなる。

ちなみにサボイホテルは本場ロンドンのストランド通りにある名門ホテルで、これまでのミャンマーでは、外国ブランドの名前の借用など意に介さず天下御免であった。ホテル名だけでなく、ヤンゴン川に沿って東西に走る大通りの名前もロンドンからの借用である。
話は逸れたが、欧米人、特に英国人にとっては、キプリングはミャンマー訪問の必読書で、旅行案内書“ロンリープラネット”の役割も果たしている。別の言葉で言えば、キプリングは欧米人に対するミャンマーの広告塔でもある。



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04:キプリングの日本訪問

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話を無理やり日本に持っていきたい。

ビルマは1889年3月の3日間だけだったが、キプリングはモールメインからペナン、シンガポール、香港、広東に寄港して、4月15日に長崎(12時間滞在)、そこからさらに30時間の船旅で神戸に到着。日本では鎌倉の大仏にまで脚をのばし、5月28日まで一ヶ月以上も長逗留している。念のために言えば、当時は航空機での外遊時代はまだ到来しておらず、蒸気船による洋行時代であった。

キプリングはこの航海の途次、ペナンでは有名なイースタン・オリエンタル・ホテルに、シンガポールではラッフルズ・ホテルに立ち寄っている。

日本ではいまでこそ、キプリングの人気は失墜しているが、当時のキプリングはかってのバイロンもしのぐといわれた人気作家であった。

両親に従いインドのボンベイで生まれたが、教育のために6歳でイギリス本国に送還されると、そこでの生活になじめず、寄宿舎生活は悲惨なものだったと伝えられている。インドに戻りジャーナリストとなり若くして短編小説で名を上げた。狼に育てられ、種々の野獣と交わりながらジャングルの掟を学ぶ少年モーグリの物語「ジャングル・ブック」は彼の傑作のひとつで、いまでもデズニー映画の傑作となっている。

この飛行機ではない帆船と蒸気船の時代に、キプリングは世界一周の新婚旅行の途中で1892年4月にも日本に立ち寄り、このときは約2ヶ月間も長期滞在している。このときも鎌倉の大仏を訪れている。くどいようだが、ビルマ訪問はたった一回の、しかも3日間だけだ。それでも欧米人にとっては、ビルマといったらキプリングがまず第一に思い出される。
英国人にとっては、英国人として初めてノーベル文学賞を受賞した大文豪という気持ちがあるのだろう。

東は東の僻目かもしれないが、ノーベル賞第一回授与式が行われたのが、1901年12月10日ノーベル5回目の命日であった。漱石にとってはまさに惨めなロンドン生活の真っ最中で、作家としてデビューするのはそのあと1905年である。当時は「吾輩は猫である」が英文に翻訳され西洋社会に紹介される時代背景ではなかった。

キプリングのノーベル文学賞受賞は1907年である。何を言いたいのかというと、「猫」に「坊ちゃん」を加えれば、漱石先生は間違いなくノーベル文学賞ものだという横槍である。だが、当時の時代背景は完全に西風が東風を圧していた。

訪日2回分をひっくるめて、キプリングの日本物語をもう少し続けよう。

1884年に創立され典型的なロンドン式クラブとして組織・運営されていたのが“東京倶楽部”である。会員は男性のみ。皇族および高名な日本人・外国人を‘名誉会員’とし、駐日外国大使・勅人官・東京市長らが‘特別会員’となり、日本人男性と外国人男性が一般会員を構成していた。キプリングはその東京倶楽部でスピーチを行っている。そしてキプリングを主賓とする夕食会が鹿鳴館の大食堂で催された。当時、東京倶楽部は鹿鳴館の中にあった。

キプリングは英国汽船“エンプレス・オブ・インディア号”で1892年4月20日に横浜に到着した。が、そこで目にしたのは、イギリス人作家の著作を無断印刷コピーした本が見事に系統立てて揃っていた。しかも、英国式スペルを米国式スペルに無断で綴り直し、これは盗品だ、強盗だとキプリングは大憤慨している。これらはニューヨークのジョージ・マンローという出版社が「海岸ライブラリ」と銘打って刊行したシリーズもので、同社は1888-1899年でキプリングの著書から11冊を海賊出版していた。このような出版事業を生み育てたアメリカという国を呪いながらキプリングはこの横浜の店を後にした。

いま中国が、そして東南アジアの国がDVDやCDの海賊版を販売していると、米国が、FBIが目くじらを立てているが、何のことはない、ホンの100年ほど前のアメリカ商法をやっと東は東の国々が学習し始めただけのことではないのだろうか。



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05:ジョージ・オーウェルの登場

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話が脱線したが、英国にはもう一人強力な助っ人がいる。ジョージ・オーウェルだ。

彼もインドのベンガルに生まれ、名門イートン校を卒業すると、警察官として英領インド帝国ビルマに赴任するため、1922年10月27日リバプールのバークンヘッド港からP&Oの一等船客としてスエズ・紅海・インド洋・コロンボ経由で、11月27日ラングーン港に到着した。1927年7月14日までの5年間、マンダレー、メイミョ(ピンウールイン)、ミャウンミャ、トゥワンテ、ラングーン、シリアム(タンリン)、インセイン、モーラメインの9ヶ所を赴任して廻った。

そのあと、パリやロンドンを放浪したが、ジョージ・オーウェルの最初の小説「ビルマの日々」がなんと言ってもミャンマー訪問のバイブルとなっているが、「象を撃つ」など当時のビルマ題材とした小説も多い。そして最後の小説「1984年」が未来の管理社会を描いているとして有名だが、これはスティーブ・ジョッブスのアップル社誕生に関連するが、話が飛躍しすぎるのでこれは別の機会に。



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06:ストランド・ホテル 

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キプリングにせよオーウェルにせよ、彼らが到着したのは海からで、そこはイラワジ川の支流の支流、ヤンゴン川を遡ったナンティダ桟橋であった。その真正面のストランド通りに建つのがストランド・ホテルである。

日本郵船の1914年版“公式シッパーズ・ガイド”には、「ストランド・ホテルはビルマ最高級のホテルである。イラワジ川に面して建つ。パトロンはビルマの副総督閣下。電信番号は“サーキーズ・ラングーン”」となっている。

このサーキーズこそアルメニア人のホテル経営者として伝説的なサーキーズ兄弟である。ペナンのイースタン・ホテル、同じくペナンのオリエンタル・ホテル。そして超有名なシンガポールのラッフルズ・ホテルの生みの親である。そのサーキーズ兄弟が1901年にラングーンに建設したのがこのストランド・ホテルである。このホテルは第二次世界大戦中には一時日本軍に接収され、その運営は日本の帝国ホテルに委託されていたが、この話は長くなるのでここでは省略する。

そしてストランド・ホテルというと、もう一人の英国の文豪、サマーセット・モームもここに宿泊したことがある。

このように、今日のミャンマーは欧米人の目から見たばあいには、日本人以上に歴史的な魅力を感じる旧き良き植民地であったのである。


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参考文献:
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01:「ロンドンの漱石」出口保夫著 河出書房
02:<SECRET HISTORIES: Finding George Owell in a Burmese Teashop>Emma Larkin - John Murray (Publishers) Ltd.
03:<KIPLING’S JAPAN> edited by Hugh Cortazzi & George Webb 





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