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<ミャンマーで今、何が?> Vol.76
2013.12.25

http://www.fis-net.co.jp/Myanmar


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■ミャンマーの現在史を振り返る

・01:幸運なミャンマー

・02:最初の試練

・03:高まるミャンマー非難と外圧

・04:無力な首相から戦略家の大統領に豹変

・05:スーチーと信頼関係を醸成

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12月25日(水)発行の今週号は今年最後のメルマガとなります。そこで今週号では世界の孤児から世界の寵児に豹変してきたミャンマーの今日までの現在史を振り返ってみたい。現代史ではなく、あくまでも今日の歴史、現在史である。

なお、次回・次々回の水曜日は1月1日、1月8日に当たりますが、この年始当初の2週間は休刊とさせていただき、2014年の週刊メルマガは1月15日(水)から再開予定です。


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01:幸運なミャンマー

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2013年末でのこの国の現状はミャンマー・ミラクル、ミャンマー・マジック、あるいはミステリアス・ミャンマーで、言葉遊びだと、すべてMMと表現できる。

チョット前までは残虐な軍事独裁国家で、諸外国からは蛇蝎のごとく嫌われ、特に欧米諸国からの禁輸制裁は厳しく、先進国からは孤立した鎖国国家に追い込まれた。その間に、軍事的にも、地政学的も、各種資源の埋蔵量からも、隣の大国・中国はドラゴン・ファイアを吐きながらこのミャンマーを飲み込もうとしていた。

それがどうしたことだろう。2011年3月に将軍の制服を市民服に着替えたテインセイン大統領の登場で新政府が組織され、わずか3年足らずの年月で、先進国の元首・最高指導者からレッドカーペットで丁重なもてなしを受ける魅力的な国家に変貌してしまった。

それも米国、EU諸国など欧米先進諸国のみならず、NZ・オーストラリアを含む大洋州の国々、いやいやそれだけではない、はるか遠く離れた中南米の国々、ソ連、東欧圏までもがやってきた。そして遅れてならずと韓国も日本も駆けつけてきた。

当初は完全に支配下に置き無力な国とみなしていた中国までもが、あわてて党の重鎮、解放軍の大物を繰り出してこれまでの約束を忘れていないだろうなと凄みを利かせにやってくる。

だが手ぶらでやって来る不躾な国などひとつもない。そのすべての国々が資金援助、技術援助、医療施設、農業機械、道路建設、港湾施設、教育システムなどありとあらゆる手土産でご機嫌伺いにやってきた。なかには軍事国家を毛嫌いしていた国々から、軍事演習を共同でやらないかと持ちかけてくる。そしてミャンマーが長期間返済の見込みもなく背負ってきた膨大な借金を気前良くチャラにする太っ腹の国まで現れる。この国を支配下に置いていたと錯覚していた国までが、周りに習って、あわててミツグ君に変身してしまった。道路を修復したり、学校を建てたりと。

ミツグ君は日本で一時流行した言葉だが、何のことはない、少し古い言葉で言えば、朝貢制度そのものである。東洋の大国・中華の天子が東夷・西戎・南蛮・北狄に対してミリタリー・パワーで平伏させたものである。だが、このミャンマーは武力を使わずに平和裏に短時日で、それをこの二十一世紀初頭に実現したのである。これを“ミャンマーの奇跡”と言わずになんと言おう。



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02:最初の試練

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2008年5月2日ベンガル湾の波浪は一気に高まり、ミャンマーの海岸線に面するラカイン州、イラワジ管区、ヤンゴン管区、バゴー管区、モン州、タニンタリ管区の大半が暗雲に覆われた。

北太平洋南西部の熱帯低気圧は台風と呼ばれるが、ここベンガル湾ではサイクロンと呼ばれる。そのサイクロン・ナーギスが猛威を振るったのは特にイラワジ管区であった。ヒマラヤ山系東端の氷河を水源とするイラワジ川はこのイラワジ管区でベンガル湾の一角アンダマン海に毛細血管のように支流を分岐して流出する。デルタが形成する沿岸地帯だから海抜が低く、高波が押し寄せたり、津波に見舞われると、無防備に海水に飲み込まれてしまう。

そのデルタ地帯を5月2日の夕方から3日の朝方に掛けてナーギスは稲妻・雷を伴った暴風雨として猛威を振るいゆっくりと駆け抜けていった。イラワジ管区の後背地にあるヤンゴンですら、屋上・ベランダの置物は吹っ飛ばされ、下の階は洪水に見舞われ、街路の大木が根っこからなぎ倒された。アパートの上階に住む住民はアララト山のノアの箱舟よろしく数日間は下界を見下ろすだけでトイレの処理にも事欠く始末。家屋浸水や、家屋を流失し、避難する場所もなく、濁流に飲まれていった人たちのことを思うと自然の恐ろしさを再認識させられる。

そして国営日刊新聞は死者の数を毎日報道し続ける。千人が一万人、五万人、十万人と、その数は幾何級数的に増えていく。洪水に覆われ、道路が寸断され、行政機能が麻痺し、電話も電気も通じないデルタ地帯。本当の数字が把握できているのかと疑問が沸き起こる。死者の数が十三万人を超えた時だった。これ以上数字の集計はできないと行政当局はギブ・アップ宣言を出した。だからナーギスの死者数は約十四万人で打ち止めとなっている。だが、実態はそんな生易しいものではないだろう。

そのうちにヤンゴン市内で悲惨なデルタ地帯のビデオが密かに流れ始めた。処罰の対象となるビデオだ。腐敗ガスで膨れ上がった死体が次々に流されていく。掻き集められた半裸の死体があっちにもこっちにも丸太のように並べられている。水浸しで枯れ木もないこの一帯で、延々と続くこの死体をはたして焼却できるのだろうか、時間が経てば悪臭を放つ死体から病気の蔓延も考えられる。

ビデオ画面は仏塔の立つ僧院に切り替わる。周りの田畑と違って盛り土をし、地盤がしっかりした広大な僧院だ。そこに家や家族をなくした大勢の人たちが着の身着のままで力なく横たわっている。そのなかで異様な軍服姿の一団が住民にハンドスピーカーで必死に語りかける。“すごく偉い人が必需品を持って駆けつけてくれた。君たちはこの偉い人を知らないのか”と。ハンドスピーカーで必死に語りかけたのが、泣く子も黙るといわれた当時の情報相で、すごく偉い人というのが当時のテインセイン首相であった。呆然とした民衆の反応はない。2008年5月のことである。

テインセイン首相が当時やったことといえば、ヘリコプターで被災地を飛びまわり、飲料水、米、医薬品、現金などを配給するくらいのものであった。無力な首相であった。



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03:高まるミャンマー非難と外圧

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ミャンマー国首相は偉い人には違いないが、すべてはその上に君臨する超法規的な上級将軍の顔色を窺いながらすべてが決定されていたと言われている。

米国とフランスの行動は早かった。被災地への援助物資を満載してそれぞれの軍艦をデルタ地帯の海岸線沖合いで待機させた。ミャンマー政府の揚陸許可はなかなか下りない。テインセイン首相が一手に欧米マスコミの矢面に立つ。生き延びた被災者も飲み水も食料もなく体力を失い、刻々と死者にカウントされていく。テインセイン首相の打つ手はない。
第三次英緬戦争では、英国の軍艦(蒸気船)が一晩でイラワジ川を遡りマンダレーに達し、マンダレーの宮殿を襲撃し、ビルマ王朝は廃絶されたとの屈辱の歴史を、ミャンマーの士官学校では教えるという。

当時はやった言葉にXenophobiaがある。外国人嫌いという意味だ。日本人ならばむしろ攘夷と訳すだろう。そこで討議されたのは、欧米の軍艦が海岸地帯から一気にヤンゴンを襲撃することは避けねばならない。そして海兵隊とミャンマー人民が直接接触することも避けねばならない。黒船に対する江戸幕府とその対処法に大差はない。オタオタと鳩首協議である。そして、「ヤンゴン空港に限って航空貨物による支援物資だけを受け付ける」となんとか発表した。

それからがカオスだった。ヤンゴンからイラワジ管区の各市町村に通じるのは今でも一本道である。地図上で近回りしようとすると道路は湿地帯の中に水没してしまい、四輪駆動車でも脱出できなくなる。結局は一本道の迂回路が近道となる。そこに国連機関、世界各国の赤十字社、大中小規模のボランティア各団体がヤンゴンで救援物資を手当てしてトラックでやってくる。田舎の道路はお互いに片輪を路肩に落としてすれ違うのがやっとだ。重たい飲料水や米などを満載した轍のあとはどんどん深くなる。デルタの道路はぬかるみだ。このトラック部隊が田舎道を延々と続く。ミャンマー人のドライバーは何でもかんでもクラクションを鳴らす。それでも先行車は動かない。故障車が出ると後ろの車はお手上げだ。幸運にも目的地に支援物資を配達できた空車がその脇をすり抜けてヤンゴンに向かう。阪神大震災の教訓を生かせたらと思わせる光景だ。極秘裏にもぐりこんだ特派員がその惨状と政府の非効率さをビデオと写真でネット上に流す。マスコミに対する締め付けが一段と厳しくなる。接続拒否のウェブを読み取るソフトが出回る。イタチごっこが続く。
目的地はイラワジ管区の沿岸地帯だから米国とフランスの揚陸艇で配達したらピザの宅配よりも早いことは間違いない。海外の非難がミャンマー政府に、テインセイン首相に集中する。

当時ミャンマーは国内での使用をFEC紙幣に限っていた。外国機関が持ち込んだ米ドルをいったんFECに交換させるのである。だから被災地に配る必要物資はヤンゴンで手配し、そのFECは現地通貨のチャットに交換するのである。トラックをチャーターしたり、現地のスタッフを採用するのもチャット払いが義務付けられていた。約10団体にも上るヤンゴン駐在の国連機関がこのトリックにやられ、世界中から集めた善意の義捐金の25%が消滅してしまった。その後、国連本部の監査ですべての国連機関がその25%を指摘されたが、その追及はうやむやになった。ヤンゴンに代表を常駐させる国連機関が為替レートのカラクリひとつ把握できていなかった事実に唖然とするが、その後の追及はなく、誰かがにんまりとしているはずだ。

なぜこのような話を長々としたかというと、大災害はビジネスになるということである。25%もの収益が濡れ手に粟なのである。ラスベガスやモンテカルロの胴元でもこんなあくどいことはやらない。この体験的学習効果は大きく、当局以外にも大災害でこの利ざやを稼いだNGOや民間団体もいるとの噂である。



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04:無力な首相から戦略家の大統領に豹変

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テインセインという人物は、上級将軍に忠誠を尽くし、無口で出世欲や自己主張がなく、エリート将校たちの中でも野戦で勇猛さを発揮する将校ではない。むしろ読書型の参謀が似合う将校とされていた。それだけに勇猛な同僚たちからは蔑みの目で見られ、高官の地位を利用して私服を肥やす度胸もなく、あまりにもクリーンなテインセインと呼ばれていた。テインセインには夫人と二人の娘がいるが、これほどの高官にしては珍しく、娘たちがどのようなビジネスを経営しているとか、どのような有力者に嫁いだとかのニュースはまったく流れてこない。

それだけに上級将軍からは、野心のない、自分に反旗を翻す恐れが最も少ない人物と判断されたのだろう。だから上級将軍自らがピックアップし、新生ミャンマーの大統領に据えたといわれている。2011年3月のことである。

いまや将軍の位となったテインセイン大統領ではあるが完全に四面楚歌であった。軍事政権を終焉させ、新たに民主政治に基づく新政府を作り上げるという国造りに、軍人仲間は非協力的であった。民主主義に反発する保守的な元軍人仲間の同僚で新政府は満たされていた。国内だけではなく、海外からも、見かけだけの民間政府、市民服の下には軍服を着込んでいると散々にたたかれた。内にも外にも味方はいない孤立無援であった。

だが、テインセインは戦時中に勇猛な突撃を試みる大将というよりも、むしろ天下の形勢をじっくりと読み取って戦略を練る参謀型の将校であった。そして将軍とはそれら双方の将兵を適材適所に配置し動かすのが仕事である。そして今は戦時ではなく、平時である。
欧米のマスコミはテインセインの人物評価にBookishという形容詞を使うことがある。‘本好きな’あるいは‘クソまじめな’と少しおちょくった意味もある。あの縁なしのメガネを掛け、苦虫を噛み潰したような風貌にぴったりの言葉だ。

そのブッキッシュな性格がこの平時にぴったりと嵌ったのだろう。「ミャンマーで今、何が?」を冷静に読み解いていく。そしてミャンマー憲法における国家の法体制を、そして大統領の職務権限の範囲を分析していく。民主主義とは何モノか、民主国家とは?リンカーンの“人民の人民による人民のための政治”が聞こえてきたかもしれない。

“ミャンマーの人民とは?”ブッキッシュな大統領には最も得意とする謎解きだったかもしれない。ミャンマーの対立軸が徐々にクリアになっていく。ミャンマー国防軍にとっては国境地帯に巣食う反政府反乱分子、政府にとっては最大野党のNLD、海外では欧米の経済制裁、中国からの軍事的・政治的・経済的な圧力。参謀として培ってきた能力を遺憾なく発揮して、その鍵はすべて“アウンサンスーチー”にありと結論を出す。これは上級将軍の顔色を窺っていては決して出せない結論である。だが、今は自分の立場はミャンマー憲法で国家元首として規定されている。野戦で勇猛なだけの将軍では出せない、人生を賭けた勇気が要ったに違いない。多分、重大な何かを覚悟したのであろう。 東西南北研究所では、テインセイン大統領はこの時点で何かを悟り、テインセイン自身が大きく豹変したものと見ている。



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05:スーチーと信頼関係を醸成

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国内はもちろんのこと、世界のマスコミが唖然とする“アウンサンスーチー”との会見が行われた。話の内容は今でも謎だ。しかし、‘テインセイン大統領は信頼できる人です’とアウンサンスーチーは会見直後に語っている。テインセイン大統領はアウンサンスーチーの心を掴むことに成功した。両者の間に信頼関係を築く土台ができあがった。

そのメッセージを確認するために、世界のリーダーたちがネイピードのテインセイン大統領とヤンゴンのスーチーをセットで訪問するようになる。スーチーを避けていた中国までもが接触を図る。そして米国が動いた。ヒラリーが動き、世界が動き、ダメ押しでオバマが動いた。

戦略家の諸葛孔明が取り組むのはスーチーだけではない。自分の配下の大臣、副大臣を選別し、民主化に真の理解を示す人材を保守派の反感を呼び起こさないように配備していく。大統領府に政治・経済・法律のそれぞれ三名の大統領顧問を抜擢し、矢継ぎ早に改革案を発表する。必要であれば早速委員会を設置する。これなど将兵を完全に把握しないとできない技だ。

スーチーを動かすと同時に、大統領特赦による政治犯大量釈放、言論・報道の自由化、スト禁止の解除、経済の自由化、軍人グループが不満を漏らすほどのスピードで矢継ぎ早の改革案を打ち出していく。

米国は注意深くといいながら、経済制裁の解除を段階的に発表していく。米国が動くとEUも反応した。欧米が動くと世界がミャンマーとのビジネスを模索し始めた。軍部も改革のスピードには不満だが、欧米の経済制裁解除は大歓迎である。だから、テインセインの手腕に反対はできない。

ミャンマーが主催国となった第27回SEAゲームは終了した。獲得メダルの多寡は別にして、今回のパフォーマンスで世界の最貧国家の名前は返上できたのではなかろうか。そして来年2014年を通して、テインセインが元首であるこのミャンマーがアセアン連邦会議のホストを務める。国際会議デビューのころの記念撮影では、いつもひっそりと端っこが指定席であった。だが、最近の記念撮影だと常に真ん中に引っ張り出される人気者である。来年の議長としての采配振りが楽しみである。

ミャンマーの現代史に刻まれる大政治家であると評価しても良いのではないだろうか。もしシュエマンとスーチーが低レベルのところで小競り合いを繰り広げるならば、2015年にはテインセイン大統領の継続という声も巻き起こるかもしれない。
このあたりは来年に入ってから、分析してみたい。

この一年間のご愛読ありがとうございました。

2014年も引き続きよろしくお願いいたします。

皆様にとりましてもミャンマー同様に希望に満ちた新年でありますように。



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