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<ミャンマーで今、何が?> Vol.61
2013.9.11

http://www.fis-net.co.jp/Myanmar


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■サージパンという人物

・01:サージパンをご存知ですか?
・02:その青年時代をたどってみよう
・03:香港での修行時代
・04:祖国ミャンマーに復帰
・05:パンラインゴルフ場
・06:苦節十年
・07:政治の風向きが変わった
・08:スターシティ
・09:最後に

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01:サージパンをご存知ですか?

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ボージョー・アウンサン市場の東隣といえばヤンゴンのど真ん中に位置する一等地。そこに堂々とそびえるFMIセンタービルおよびグランド・ミヤタのオーナー。そしてYoma銀行の会長。それだけではない。グリーンフィーがヤンゴンで最も高いといわれるゲイリー・プレーヤー設計のパンライン・ゴルフ場。それを取り囲むように、最新鋭の医療設備が整った総合病院。そしてキッチンからゴルフ場のグリーンが見えるといわれる超高級住宅地を開発販売した張本人が今回の主人公・サージパンである。

実は、この人物をフォーブス誌アジア版9月2日号で特集しているが、その内容は2012年のフィナンシャル・タイムズ紙のインタビュー記事ともダブっているので、東西南北研究所のデータとも合わせてサージパンの人物伝を再構築してみた。

サージパンはSerge Pun & Associatesの名前でグループ化した約32社をミャンマー国内で運営している。その事業内容は、銀行業務、住宅土地開発、農場経営、医療サービス、民間航空、車両販売、小売業、観光業など多岐にわたり、特筆されるのがミャンマーで唯一の国際企業といえる、シンガポール株式市場に上場したYoma Strategic Holdings(Yoma戦略的持株会社)のオーナーでもある。

このため、海外の政府および投資家からはミャンマーを熟知した国際企業とみなされ、ミャンマーの政府および事業家からは海外事情に通じたミャンマー企業とみなされている。そのため、ミャンマービジネスが国際的な脚光を浴びる今、専門的アドバイスを求めて、あるいはミャンマーの合弁相手としての照会が同氏に集中しているのが実情である。

サージパンはフォーブス誌アジア版2013年8月号のシンガポール長者番付では第38位にランクされ、純資産は米貨5億ドルとされている。


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02:その青年時代をたどってみよう

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サージパン(Serge Pun)は1953年ラングーンに生まれ、ミャンマー名はThein Wai(テインウェイ)。中国名は潘継澤。父親は華僑の銀行家で、英国系のSt.Paul英語高等学校に通い、それまでは裕福な生活をしていた。だが、1962年のネーウィン将軍による社会主義革命で、英語による教育は廃止され、私財は没収。ほとんどの企業が国有化された。外国系事業に対する締め付けは厳しく大量の国外脱出が発生した。サージパンの家族も3年後の1965年には北京へ脱出したが、そこでは9ヵ月後に文化大革命が始まった。

12歳のサージパンは両親・4人の兄弟と別れ、少年紅衛兵となり、国中をのし歩いた。4年後に、1,500名の他の子供たちと再教育の名目で遠く離れた雲南省の寒村へ送り込まれた。そこでは人民解放軍の監督の下、機械を使わない手仕事でダムを建設したとサージパンは回顧する。

自分たちで作った竹小屋に寝起きし、木の枝で寝床を作った。電気はなく、真冬でも川で水浴した。最低限の食料と米が支給され、あとは自分たちで賄わねばならなかった。恵まれた隊に所属すれば、野菜を植え、豚を飼育し、肉を食うことができた。そうでなければ、乾燥野菜だけで、恐ろしいほどまずかった。


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03:香港での修行時代

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1973年になると国境地帯での監視は緩和され、サージパンは家族とともに、当時英国が支配していた香港へ脱出することが許された。国境を越えたとき、彼のポケットには5ドルしか持っていなかった。遠く離れた貧しい社会で、どこに行くにも何マイルも歩かねばならなかった。そして生活そのものが必要最低限のもので生きていた。そういう社会から突然、香港に入り電車に乗ると、それはまったく別の世界であった。

当時20歳のサージパンは生き延びるために、短い期間だったが、香港の港に停泊する船舶に小さなサンパンで食料などを届ける仕事を見つけ、次は芳香スプレーをドアからドアへと個別販売する陸上でのセールスマンとなった。

ある日、エルマー・ブッシュという不動産のブローカーを訪ね、でたらめの英語で芳香スプレーを売り込んだ。するとブッシュ氏は彼の意欲に注目し、今度の土曜日にもう一度来ないかと誘った。約束どおりに再訪すると、ブッシュ氏は俺の事務所で働けと申し出てきた。サージパンはその申し出は受けるが、芳香スプレーの購入が条件だと答えた。これがお前が販売する最後の芳香スプレーだ。そして今からこの事務所で働くのだとブッシュ氏は語った。

そして次の10年間、サージパンはこの師匠からビジネスの裏表をすべて学んだ。そしてこの師匠は彼をヨーロッパ・カナダなどに連れて行ってくれたが、自分は世の中のことを何一つ知らなかったということを思い知らされた。そして役割は大きく転回し、最近サージパンはトロントに住むブッシュ氏を雇用し、Yoma戦略持株会社の不動産部門を管理させている。


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04:祖国ミャンマーに復帰

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サージパンは1993年に独立し、東南アジアおよび中国で不動産事業を成功裏に構築した。中国投資フォーラムで知り合った香港女性と結婚し、1989年には二人でビルマ視察に訪れた。24年ぶりの帰国であった。軍事政権は厳重な統制下にあった社会主義体制を緩和し始めたばかりであった。

サージパンは注意深くチャンスを窺った。そしてビルマ軍の友人が、当時貿易と財務を担当していたデービッド・エイベル将軍を紹介してくれた。彼はサージパンに熱く語り、本人をビルマに戻りこの国を何とかしたいという気にさせた。そこで国営ホテルを買い取る段取りをつけたが、新しく任命された大臣が賄賂を使った新たな買い手に許可を与えた。サージパンは怒り狂ったが結局はライバルに負けてしまった。

しかし、その後の事業は順調だった。1994年にはヤンゴンの西郊に500エーカーの土地を入手した。これは工業団地に近くFMIシティの基盤となった。サージパンはこの一帯を開発し、土地の権利を売却して管理費を稼いだ。ちょうど、市場経済に移行するときで、海外の多国籍企業も投資を増やし、ミャンマーへの期待が増大するタイミングで、最初の区画販売は順調に行った。

サージパンは楽観的な見方をし、父親は亡くなっていたが、母親をハワイからミャンマーに呼び戻しても大丈夫だと確信した。そして兄弟たちそれぞれに仕事を与えた。何十年も散り散りになっていた一家が再び寄り集まるチャンスだと捉え、これがその地だとサージパンは確信した。


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05:パンラインゴルフ場

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サージパンの次の夢は600エーカーを擁するカントリー・クラブ付き住宅計画であった。その核となるのが、緑豊かな18ホールのゴルフコースでゲイリー・プレーヤーに設計してもらった。ミャンマーのゴルフ場のモデルともなるもので、ビジネスマンの社交の場にびったりである。中でもゴルフに夢中なのは将軍たちで、サージパンは軍事政権に利便を与えているとの非難が持ち上がった。だが、それは違うとサージパンは打ち消す。“私のコースではどの将軍もタダではプレーできない”とサージパンはきっぱりと語った。

サージパンが交際した将軍の一人はキンニュンであった。国軍諜報機関のトップで一時は首相も務めた。彼は理屈が分かり心の広い人物であるとサージパンはキンニュンを評した。2000年にパンライン・ゴルフリゾートをオープンしたとき、キンニュンは来場者ノートに「国のためにハイリスク事業に投資してくれ感謝に値する」と記帳している。


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06:苦節十年

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その4年後に軍事政権はキンニュンを逮捕し、その一派を追い出した。サージパンの事業は、それまでに問題を抱えていた。2003年2月には、民間銀行で報告されていない不良債権があるというウワサが広がり、サージパンはYoma銀行の倒産を防ぐ努力をした。当時銀行危機担当大臣であったある将軍と彼自身が不仲で、その将軍は中央銀行の追加融資に反対し、銀行には貸付金の緊急回収を命令した。設備購入で銀行から融資を受けていた工場主は至急返済しないと軍部の怒りを買うと告げられ、その一方で、銀行は預金者から自分の金を引き出せないと板ばさみにあっていた。

それから10年というもの銀行は乱気流の中にいた。銀行危機委員会のトップにいた男は、ミャンマーの経済を一夜にして殺戮してしまった。これが軍部の取巻き連中が横行するクローニズムの始まりで、本物の経済は消滅してしまった。

大手民間銀行の二行は閉鎖に追い込まれたが、サージパンは銀行ライセンスだけはなんとか維持できた。だが、預金の預かりと銀行貸付は禁止された。そこで国内送金に業務を転換し、担当大臣の影におびえるように何とか生き延びたが、このためにその将軍は私を決して許してくれなかったとサージパンは語る。

2000年代の中頃はクローニーが台頭してきた時期で、将軍の言うことを聞かない人間や企業は冷や飯を食わされた。この時期が自分にとって最悪の時期であった。自分の事業を横取りしようとする圧力や、潰しにかかろうとする人間が大勢いた。サージパンはこの時期、頭をなるべく低くして風当たりを避けて事業を続けた。2008−09年がクローニー横行の最盛期で、このゲームに加わらないとこの世界からのけ者扱いされ、それだけではなくサージパンの事業を崩壊させようとした。


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07:政治の風向きが変わった

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だが。2010年から政治の風向きが変わり始め、総選挙が実施されると発表された。サージパンがよく聞かれる質問で、どうして汚職に塗れないで事業を継続でき、そして今もう一度頭を持ち上げることができたのだというのがある。人々は私が6年間冷や飯を食いのけ者にされていたことを忘れている。私は便宜を図ってもらうために一セントも支払っていない。圧力はすごかったが、私はいま正直に答えることができる。私は馴れ合いの反対給付は一度も受け取らなかったと。

自分は幸運に恵まれ、勘も優れていた。いま、多大な利益をもたらしているヤンゴンの土地は1990年代に仕入れたものだ。そして現在、手がけている事業のほとんどすべてが消費者向けのもので、政府頼りではない。

サージパンと交渉したことのある多くの実業家はきっぱりと語る。サージパンはタフだ。彼にパンの一切れを差し出すと、気がついたときにはパン一斤をすべて取られてしまうと。だが、彼のビジネスは非常にクリーンだとヤンゴンのビジネスマンは言い切った。だから、彼のことをミスター・クリーンと人は呼ぶ。テイザーやゾーゾーとはまったく異なるということである。

サージパンのビジネス哲学は紅衛兵の再教育キャンプで学んだものだ。中国での苦しかった時代を忘れないどころか、それは私の珠玉の宝となっている。そのときに学び、耐え忍んだことが私が後半生に成し遂げたことの基本となっている。これらの苦難は今となっては私の大切な友人のようなものだ。


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08:スターシティ

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ヤンゴンの中心部から今話題のティラワに向かうと橋を二つ越える。その二つ目を渡り切ったところに“明日のモデルシティ”という看板が見える。サージパンが住宅居住区として販売している400エーカーの広大な敷地である。日本のコンソーシアムが開発しようとしているティラワ深海港工業団地の入り口ともいえる申し分の無い立地条件である。すでに土地の価格はうなぎ上りである。勘が優れていたとも言えるし、本当に幸運に恵まれた男でもある。

サージパンの総司令部はFMI(First Myanmar Investments)。この名前が暗示したとおり、ミャンマーで最初の投資会社である。その事業内容は多岐にわたり、毎月何らかの新規事業に挑戦している。今ミャンマーで事業を始めたければサージパンのところへ行けが海外投資家の合言葉になっている。まさにアジアと欧米の架け橋である。


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09:最後に

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日本や欧米では海外の中国人を華僑またはオーバーシーズ・チャイニーズの一言で片付けるが、その中身は共産党系、台湾系ではまったく異なる。そしてミャンマーでは裕福な福建省出身と貧しい広東省出身を確認することが基本となる。そのほかに差別用語となるかもしれないが中国のユダヤ人と呼ばれる客家(ハッカ)がいて、上部ミャンマー、特にシャン州では雲南省出身がマジョリティを占めている。

そしてご存知かもしれないが、中国人には中国人がもっとも大切にする同姓・同郷・同学・同事・あともう一つあったが忘れてしまった。すなわち同じ姓、同じ故郷、同じ学校、同じ会社の出身は中国人が大好きな関係(グワンシー)を結ぶための五大要素である。
サージパン物語で出てきたネーウィン、そしてキンニュンも客家系の中国人である。そしてこの物語ではサージパンをミスター・クリーンと呼んだが、逆の味方をすればキンニュンに取り入った辺りは彼の読みが外れたと見ることもできないだろうか。もしキンニュンが権力を維持していれば、今度は彼がクローニーと呼ばれたかもしれない。

そしてもっと大事なことは、クリーンだとか、透明性、そして人権を表面的に振りかざす欧米の、そして最近は日本もその仲間入りしているが、それらに対して大半の中国人はそれらをまったく気にしていないということである。





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