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<ミャンマーで今、何が?> Vol.488
2022.04.06
http://www.fis-net.co.jp/Myanmar
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━━【主な目次】━━━━━━━━━━━
■国家の指導者を解説
・01: 下街の知恵比べ
・02: 演説原稿のポイント
・公式ツイッター(@magmyanmar1)
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・01:歴史から手口とクセを見分ける
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どうして総司令官は宿敵に対してテロリストと決めつける過激なスピーチをしたのか?
演説の中にその秘密は眠っている。そこで同志諸君!という呼び掛けを仔細に分析してみた。
彼の頭には“2008年憲法”という金科玉条しかない。
リンカーンの歴史的演説を比喩に欧米のジャーナリストが「軍人の、軍人による、軍人のための憲法」と皮肉ったのがこの憲法である。
そして正当なミャンマー市民であろうと配偶者及び子供が外国籍なら、この国の大統領になる資格はないと、考案したのがこの“2008年憲法”である。これはスーチー個人をターゲットとした憲法である。
国会議員の四分の一は国軍が指名する、という喧々諤々の議論を喚び起こす条項で、世論の目を逸し、問題をすり替える事に成功した。実に老獪で巧妙な戦術である。
大統領就任というスーチーの野望を阻止することが“2008年憲法”の狙いである。
形式としては新憲法だが、当時この国を牛耳っていた独裁者タンシュエはスーチーを蛇蝎の如くに毛嫌いしていた。それを愚民に知らしめるために起草したのが、この新憲法である。
この独裁者は自分の目玉が白濁する晩年を恐れていた。
そこで自分の権力を文官と武官に二分割し、最期まで柔順に従うよう、慎重に、しかも極秘に、後継者の忠誠度を試してきた。
その試験にパスしたのがテインセインとMAHの二人である。
テインセインは文官として2011-2015年の大統領職を指示した通り忠実に果した。
鎖国から開国という国家の舵切りを成功させ、海外からの莫大な投資資金を導入することが出来た。
テインセインの働きにタンシュエはほぼ満足している筈である。
後継者選びの大失敗は軍事政権の本丸、武官の方であった。今となっては手遅れだが、彼こそが愚民そのモノである事にタンシュエは気付かなかった。
そこでもう一度タンシュエの経歴をバックナンバーで調べてみた。
1933年(今年89歳、1935年説もあり)にマンダレー地区チャウセのミンズ村で生まれた。日本時代、大学には進学せず郵便局に勤務。20歳で陸軍に入隊し、10年で新設された教育・心理作戦局に異動、1958年にはソ連のKGB主催の特訓講座に参加。1960年大尉となり、1962年ネウィンがクーデターで政権を掌握すると、タンシュエは10年もせずに中佐となり、南西管区の司令官となった。
1988年にはネウィンが退陣し、4年後にはソウマウン将軍が発狂し辞職した。表向きは健康問題で辞任となっている。
タンシュエはSLORCの議長、上級将軍、国軍最高司令官となり、この国の最高権力者=独裁者となった。ネウィン同様に、頭をもたげるライバルを次々に投獄し、物理的に、そして政治的に抹殺していった。タンシュエは非情で凄みのあるスパイマスターである。
ブルドックのような顔付きから、この人物を野卑で凶暴な独裁者と見誤ると大怪我をする。
実際ヤンゴンに駐在した海外の武官・大使クラスでその繊細さを見抜けなかった外交官は多数いる。逆にそれを見抜いたのは英米の極々一部である。
話を短くしたいが、ここで話を切るのは中途半端である。もう暫くご辛抱願いたい。
愚民の話だった。
その愚民が“2008年憲法”の条項に従い、2021年2月2日早朝にクーデターを起こした。それから一年を乗り切り、日毎に強権を強め、自国民大量虐殺を重ねている。
プーチンはウクライナ人を、愚民は自国民を虐殺してきた。この差異は、如何なる高僧に祇園精舎の大伽藍を寄進したところで、その血塗られた手を拭い去ることは出来ない。シェークスピアの描いたマクベスのように。
ベンガル湾の水を使い尽くしたとしても、インド洋の大海を汲み尽くしたところで、冒した大罪の償いは出来るものではない。
生きている間はもちろん、死んでからも、地獄の業火に苛まれるべきだ。
その大罪は愚かな総司令官一人のものでなく、夫人にも、娘息子その配偶者、そして一族の後裔に未来永劫輪廻するものである。
虫けらのように殺戮されたイノセントな娘や幼な子の嘆きを聴けば、その責任は副司令官も全く同罪で、SACと称する国家安全保障委員会の全員及びその家族一族も同罪である。
一部のマスコミは総司令官さえ除けばと呑気なことを言うが、この強大な組織は上記の全員を抹殺しない限り、金太郎アメのオンパレードとなること必至である。
本題に戻ろう!
この繊細な神経の持主であるスパイマスターは直接には手を下さなかった。
ネウィンの子飼いであったもう一人のスパイマスター・キンニュン(元首相)にネウィンの目玉が白濁したのを確認させ逮捕に踏み切った。ネウィンは自宅監禁中に92歳で亡くなった。国営新聞は何も報じなかった。家族による死亡通知が小さく掲載された。葬儀は身内だけでひっそりと行われた。これが軍事独裁者の末期である。タンシュエはこのことを異常なほど恐れている。だが愚民には自分の末期が見えないのであろう。
このドラマはそれで終わらない。タンシュエはKGB仕込みの次の手を即座に打った。
ネウィンの逮捕と同時に、男系の一族、長女の夫、およびその息子たち、すなわちネウィンの孫三人合計4名が、スーチーと同じウォーキートーキー所持、国家転覆罪など罪状が加算され、各人100年前後の罪科でインセインの刑務所にぶち込まれた。これでネウィン一家の再興は絶望と誰もが思う。
だが不思議なことに、テインセイン大統領の現役時代、ネウィン家男系4名は他の政治犯の恩赦に紛れて釈放された。これがミャンマーを単純に解釈出来ない複雑系にしている。
これで驚いてはイケない。場面はくるくる変わる。
正確な日時は忘れたが、ネウィン一家逮捕の1-2週間後にキンニュンがヤンゴン空港で突然逮捕された。タンシュエの謀略というのが通説である。金のインゴットを満載した軍用トラックを隣国タイか中国に持ち逃げしようとしたのが理由とされている。
どちらにせよ、ネウィン一家四人組は刑務所で、キンニュンは自宅軟禁で、それぞれ10年位は拘束されていたはずである。
もう一言、スーチーも非公開裁判で100年の刑を食らい、2024年の公正な総選挙後、総司令官の有り難い“恩赦”でスーチーは釈放されるというメルマガの予想も決して根拠が無いわけではない。
なおタンシュエの高齢化、そして権力を行使できない現状からして、今回からカタカナで本名を記載する判断を下した。ご了承下さい。
話を更に飛躍させたい。
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・02:木を見て森を見る総力戦の時代
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木を見て森を見ずの戒めに従おう。前章は些細な事にこだわり過ぎた。
国軍の大きなウネリは森を見て初めて読める。これこそタンシュエが描いた野望で、ミャンマーの現在史でもある。
マンダレー以北が隣国中国の経済圏に取り込まれた。中国のゴリ押しはチークなどの深林資源、宝石・銅・レアメタルなどの鉱山資源に及んだ。軍事力・海軍力の威嚇も強まり、国家元首のタンシュエは毎年1月初めに屈辱的な北京詣でを強いられてきた。
スーチーが中国に自国を売った等の青い軽薄議論を見かけるが、完全に見誤っている。
中国への危機意識を抱くタンシュエは高級エリート参謀に“民主化へ向けての7つのステップ”というシナリオを作成させ、キンニュンの首相時代(2003-2004年)に発表させた。これは米国へのシグナルだったが、第43代大統領G.ブッシュはそれを読み取れず、気付いたのは次期オバマ政権だった。特にヒラリー国務長官のお庭番デレック・ミッチェル(その後駐緬米国大使)の働きは大きかった。
中国に歯向かうには超スーパー大国USAの保障しか有り得なかった。タンシュエの深謀遠慮を見抜くべきだったのだ。
米国を巻き込むシナリオは、日本軍の協力で大英帝国を追出したアウンサン将軍のビルマに極似しており、再び英国軍の協力で大日本帝国を追出したビルマに極似している。これはタンシュエが歴史から学んでいる証左で、頭脳の明晰さは抜群である。
“民主化へ向けての7つのステップ”の段階どおりに、2008年憲法草案が作成され、NLDとスーチーを外して2010年の国民総選挙が行われ、その直後にスーチーの自宅監禁が解除された。国会の始動、“2008年憲法”の承認も、すべて7つのステップどおりである。
そして軍服を伝統的な民族衣装に着替えたテインセイン大統領の登場が2011年3月31日であった。彼の初仕事はスーチーを必死に掻き口説くことであった。
スーチーはテインセインの誠実さにうたれた。
この国ではタブーであった父親アウンサン将軍の額縁写真の下でテインセインとスーチーがガッチリと握手をしている写真が世界中の新聞の一面を飾った。
この時点では、この演出の黒幕がタンシュエだとはスーチーも気付いていない。
同様に世界のマスコミも騙された。
日本の名曲♬騙したアンタが悪いのか、騙されたワタシが悪いのか♬はグラミー賞で再評価すべきと思うが、どうだろう。
テインセインの懇願を受け入れ、スーチーとNLDは僅か48議席を争う2012年4月1日の補欠選挙に立候補した。その結果は47議席をスーチーの政党が獲得する雪崩現象の大勝利となった。
この辺りから国軍側に衝撃が走り八八八八の悪夢がよみがえった。タンシュエも気が動転した。占い師をどやしつけ、スーチーを魔女と思い込むようになった。気が狂い辞職したソウマウン大将の事が頭をチラつく。
超倍速で早送りしよう。
2015年11月8日は天下分け目の本選挙が25年振りに行われた。 欧米のマスコミ、EUの選挙監視団も厳重にモニターしており、これまでの不正介入は通用しない。結果は国軍にとって、そしてタンシュエにとっての悪夢が再現した。
スーチー派のNLD政党が大勝利を勝ち取ったのだから。
周囲は浮かれていた。国内の新聞も外電もはしゃいでいた。
スーチーだけが寡黙となり、報道陣のマイクを避け、考え悩んだ。
先が読めない。逮捕される危険もある。選挙結果を無視される危険もある。テインセイン政権の任期は来年2016年3月30日までとなっている。
時間が無い。スーチーは走りながら悩む事にした。それからの行動は早かった。
当選後すかさず与党トップとの会談を申し入れたが、実現したのは2015年12月02日であった。
午前テインセイン大統領府でのスーチーとの個別会談。
午後ミンアウンライン最高司令官事務室でのスーチーとの個別会談。
この最高司令官こそ、国防大臣、内務大臣、国境問題担当大臣という重要な3閣僚を指名・監督し、憲法改正の動きを国会で阻止出来る立場にある。
会談結果は大いに不満であった。
2016年3月31日の政権移譲及びその後の民主化政権に確たる保障は約束されなかった。
憲法上の最高権力者である二人はのらりくらりと確約を避けた。
ひょっとして最終的な決定権を握っていないのでは?と不安が頭をよぎった。他に決定権を握るのは?
元国家元首タンシュエとの極秘会談が実現したのは、それから僅か2日後の2015年12月04日であった。
スーチーの行動は素早かった。
仲介したのは元下院議長だったシュエマンでもあるが、これは彼自身の回顧録のVol.で説明した。
ここでは同時に進行したSNSのFBで大騒ぎとなった、臨場感溢れるタンシュエの孫のレポートをお届けしたい。
会談場所はネイピードにある厳重なセキュリティに守られたタンシュエ邸である。
会談の主役はスーチーとタンシュエだが、発言権どころか、法律上何の権限もないタンシュエの孫ただひとりが極秘会談の証人となった。
「私にはリベンジという怨みの気持ちなど一切ありません。この国の未来を成功裏に建設していくには、タマドウ(国軍)を含めた既存勢力と協力していくことが必要と考えます。そこでタンシュエ上級将軍のお力を是非ともお借りしたいのです」
と当時70歳の最大野党党首は誠意を尽くしてメッセージを伝えた。
相手は憲法上何の権力も持たない、現役を引退したと伝えられる当時82歳の元独裁者である。
スーチーはタンシュエひとりに的を絞り、タンシュエひとりに賭けた。
タンシュエと参謀集団はこれを最後のチャンスと受け止めたとメルマガには記述してある。
82歳のタンシュエにとって肉体的にも精神的にも限度である。
この土壇場で考えることは一族の生命・財産の安全保障、可能なら悪名高きタンシュエのイメチェン、この国を民主化へ導いたオリジナルのデザイナーは自分であるという自負もある。考えは錯綜するが、スーチーとの会談は2時間に及んだ。
当時24歳の孫は会談後に、“ド・スー有難う”と敬意を込め、ド・スーとハグした。
この孫が会談後の翌日12月5日付のフェースブック(FB)で「国民の誰もがド・アウンサンスーチーが総選挙に勝利したこと、そしてミャンマーの未来の指導者になると言う事実を受け止めねばならない」と、元独裁者の言葉を公表した。
英語で紳士協定という表現はある。だがこれはレディ&ジェントルマンs Agreementである。一人の紳士と一人の淑女が協定した。世界初の出来事かもしれない。
紙に記した契約書ではない。口頭での約束だ。死ぬまで口外しない約束である。スーチーは軍事独裁に引き出されても、淑女としてこの件には触れずに沈黙を守ってきた。今度はタンシュエが紳士として守る番である。
もう一度繰り返す。
「国民の誰もがド・アウンサンスーチーが総選挙に勝利したこと、そしてミャンマーの未来の指導者になるという事実を受け止めねばならない」
この言葉をタンシュエは自分の後継者である最高司令官に、そして彼を通じて部下である3大臣、及び全軍人グループに、遵守するよう指示する約束を果たす番である。それが出来なければ、紳士でも無ければ、男の面汚しでしかない。
ここからノンポリの仮説が論理的に進展していくのだが、それはVol.改めたい。
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・03:新潟の友人へ
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メルマガのバックナンバーを調べるのにくたびれてしまった。肩が凝り、眼が霞んできた。
アマゾネス軍団が早朝散歩に行こうと空が白みがかった頃誘い出してくれた。
この章は気晴らしの話としたい。
早朝から路上で店を広げる40歳台の女性を紹介してくれた。危険が及ぶので職種は明かさない。
驚いたことに、丁寧な物怖じしない明瞭な英語を喋る。かなりの教養人と観た。時間を焦らず、ゆっくりとこの婦人にお近付きになれればと、愛想よく失礼にならぬよう振る舞った。
更に驚いたことに、新潟県の(南?)魚沼市に住んだことがあると話してくれた。当然コシヒカリ等の話題も出たが、ここにインターナショナルスクールがあり2010-2012年滞在し世界中の友達に出会ったという。
国際学校は知らないので、新潟の友人に聞かねばと思った。
このようにヤンゴンは不思議な街である。世界中の人々に出合えるクロスロードであるのみならず国際共通語の英語さえ話せば、地元のミャンマー人とも交際が深まっていく。
イライラが募るのは、今のクーデター騒動が日増しに深刻化していることだ。軍事政権は最下層の人たちから、なけなしの金を搾り取ろうとしている。そちらの報告もせねばならない。
今週一杯は大学入試選抜試験で一日一課目を受験する。不規則な停電に高校生は夜間勉強に苦労していることだろう。
気晴らしとはほど遠いレポートになりそうだ。本日はここまで。
東西南北研究所
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