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<ミャンマーで今、何が?> Vol.273
2018.10.16
http://www.fis-net.co.jp/Myanmar
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━━【主な目次】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■印刷技術の職人ワザ
・01: 「命の版木」植松三十里(みどり)著 中公文庫
・02: 芸術作品ともいえる版木への彫刻
・03: 欧米の文化、そして日本の文化
・04: 悲しい結末
・05: 林子平の先見性
・06: 思いつくままに
・公式ツイッター(@magmyanmar1)
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01: 「命の版木」植松三十里(みどり)著 中公文庫
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旧くからの友人が日本とベトナムから合計三冊の本をヤンゴンに運んでくれた。
それぞれ読み応えがあり、味わい深いが、今回はその一冊をご紹介したい。
ヤンゴンに逼塞していても、貴重で魅力的な情報が向こうから訪ねてきてくれる。
版木とは、印刷するために文字・図画などを彫刻した木版と、広辞苑には出ている。今の時代は、パソコンで簡単にプリントアウトできるので、初期の印刷の苦労は忘られがちだ。
日本の印刷技術は、想像を絶する職人ワザで、浮世絵を含めた独自の文化を開花させた。その歴史をこの本でとことん思い知らされた。
題名が雄弁に語っている。貴重な版木を護るために文字通り命を賭けた原作者と女彫師の物語がこの本である。
原作者とは「仙台閑話」「三国通覧図説」「海国兵談」などを著した林子平(はやし・しへい)のことで、特にこの「海国兵談」は幕府体制を揺るがす危険の書とみなされ、江戸幕府からは絶版を命じられた。
時代は老中首座の田沼意次から、名君といわれた松平定信に変っている。田沼の金権政治は撤廃され、農村では米の備蓄を奨励し、武士や町人には倹約を命じて、贅沢品の売買や遊興を禁じた。それがもとで、日本全国が大不況に陥った。
江戸八百八町では白河藩主・松平定信の政策を茶化して狂歌が流行った。
「白河の清きに魚の住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」
これこそ今のスーチー政権にピッタリ当てはまる狂歌ではないか。
欧米のマスゴミもスーチーを罵倒するなら、この程度の洒落で責めてほしい。
脱線したが、松平定信は補佐役の林大学頭とともに、「海国兵談」を江戸幕府の危うさを国民に知らせるヤバイ書籍として、世間に隠したまま、徹底的に弾圧を加えた。
ここで、一服して振り返ると、日本の“お上”の政策は江戸幕府の時代から、明治維新、昭和、太平洋戦争という民族滅亡のリスクを経て、21世紀の現在まで、その本質は何ら変っていないのではなかろうか?
老獪なスーチーは、日本でのビジネス会議に出席しても、見事なほど21世紀の政治家に変身している。ホスト国も形式的には立派なホスト役だが、本質は変っていない。
スーチーが日本に期待するところは本来は“お金”ではない。それが見抜けぬと、アウンサン将軍からしっぺ返しを受けたように、スーチーからもしっぺ返しを受ける危険性は、多分にありそうだ。
またまた脱線してしまった。
だが、メルマガとしても、林子平の物語を「ミャンマーで今、何が?」で取り上げるコジツケが欲しい。何で?と言われそうだが、漱石枕流の故事を思い出し、勘弁願いたい。
話を戻そう。
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02: 「命の版木」植松三十里(みどり)著 中公文庫
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どの時代にも反骨の士はいる。
江戸の町民にも、江戸詰め仙台藩の同志にも、版元と呼ばれる出版会社にも、彫師にもいる。日本国を憂う林子平の思想・信念は分かる人間には理解される。林子平の男意気に惚れ込む女彫師まで出てくる。それが東北への逃避行中に林子平の子を孕み、産科の医者もいない旅宿で流産した。これが、もう一人の主人公、女彫師お槙である。
話は江戸に戻るが、印刷用版木の隠し場所が徹底的に追及されていく。林子平とそれを彫った女彫師(お槙)は、十手持ちの視線を感じ、湯島路地奥の隠れ長屋から密かに彫った版木を持ち出し、神田岩本町の路地沿いに引っ越す。だが、江戸幕府奉行所の追及はしつこい。御用提灯が四方八方から迫ってくる。通いなれた奥州街道を辿り、国許の仙台へと必死の逃避行を決心する。
林子平にとっては、三十五歳で家を出て以来、十八年ぶりの帰郷だった。
そこで残りの作業を、妻同然のお槙と二人だけで、昼夜を分かたず継続した。材木商から版材を買い入れ、版木のサイズに切りそろえる。版木というは簡単だが、同書によれば、版木一枚は畳3分の一のサイズだという。
切りそろえた版木全体に鉋をかけ、表面を滑らかにする。それに版下を裏にして貼り付ける。一枚の版木に一枚の版下だ。版下とは筆で手書きした原稿用紙のことである。それを裏返しに貼る。それが乾けば、文字は鏡文字で、図柄は左右対称となる。そこから女彫師お槙の仕事が始まる。
裏文字の周囲に切れ込みを入れ、その周囲をさらっていく。すると文字が富士山のように裾野を広げ、版木面上で浮き上がる。西洋の石版・銅版は合理的で強靭かもしれない、だが、日本独特のノウハウには余裕があり美が生まれる余地がある。日本独自の浮世絵も同様の手法で、町人文化として、大きく花開いた。
その下地があったからこそ、蝦夷、琉球、朝鮮という三国の地図がそれぞれ一枚ずつと、小笠原諸島の地図が一枚、それに日本全図を中心に周辺各国を書き入れたものが一枚。合計五種類の地図を「三国通覧図説」として版木に彫った。
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03: 欧米の文化、そして日本の文化
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今は確かに、アップル製品、マイクロソフト製品の世の中だが、歴史の重みは大切にしたい。西洋のルネッサンスも、その再出発点となったのはギリシャ古典の学び直しであり、ローマ古典が対象であった。
欧米の受け売り、物まねも結構だが、大々先輩たちのひたむきな努力には、感謝を捧げたい。若者たちの間にも日本人の文化的DNAが残されている筈だ。いつの日か先人の功績が受け継がれ、再評価される時代がくるものと期待したい。
妻同然のお槙の献身で版木総数三百五十一枚は仙台においてすべて完成した。繰り返すが、畳3分の一が351枚である。
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04: 悲しい結末
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だが、安堵する間もなく、江戸幕府老中の追及は陰湿で、しかもシツコイ。その追求振りは映画「ザ・フュージティブ」のジェラード警部補を思い出させる。密かに馬三頭と馬子を借り受け、版木三百五十一枚を担わせ、蛇行する広瀬川沿いを上流に急ぐ。すぐに町から外れ、右手には冬枯れの田園が広がり、左手には青葉山の急斜面が迫る。林子平にとっては、子供時代に得た土地勘がある。青葉山の北斜面を進み、急坂を登りきったところで、版木351枚の大荷物を荷馬から降ろさせ、馬子たちを町に帰した。
馬子たちは怪訝な顔をしたが、子平には、秘密の隠匿場所は誰にも知られたくなかった。
最後の大仕事は子平とお槙の二人だけでやり遂げる。
子平は包みを背中に二つ背負い、両手に一つずつ持った。包み一つで版木が20枚、4つの包みで総計80枚となる。クドイが畳3分の一が80枚である。
ずっしりと重い。両手に下げた荒縄が指に食い込む。
手伝おうとするお槙を制し、見張りに立たせた。
子平は山奥に入り、けもの道を登っていく。そしてお目当ての洞窟にたどり着いた。
急いでお槙のもとに駆け戻る。それを四回繰り返した。
子平は周到であった。
石灰の俵と鍬まで用意していた。
洞窟の中で、版木が全部収まるほどの大きさまで掘り広げると、石灰を三分の一ほど穴の底に敷き詰めた。その上に版木を蓆包みごと積み重ね、穴との隙間、蓆の上部も石灰で包み隠した。
普通石灰は、白壁用に用いられるが、消毒剤や防腐剤としても用いられる。
木製の版木をそのまま土に埋めると、じきに腐ってしまう。その予防のため、あらかじめ子平は左官屋に頼んで、石灰を分けてもらっていた。
最後は土で埋め戻し、さらに表面を枯れ葉で覆い、掘り返した痕跡を消してしまった。
そしてお槙に言った。「この場所をよく覚えておいてくれ。俺の身に何かがあったら、ここに版木があることを江戸の仙台藩邸に伝えてくれ」 そして二人はもと来た道を引き返した。
秋の日没はつるべ落としだ。足元が見えにくく、お槙が木の根につまづき、足首をひねった。山中に二人で野宿し、翌朝、お槙を背負って、急坂を降り広瀬川を目指す。
川原にたどり着き、腫れた足首を手当てしているとき、川下から大勢の集団が上ってくる。馬子たちが口を割ったのだ。お槙を負ぶったままでは万事休す。
両脇腹に槍の刃を突きつけられ、背中にも刃先の気配がある。わずかな身動きも封じられた。呼子が吹き鳴らされる。侍集団はますます数を増す。
お槙にもお縄がまわされようとした。その一瞬、愛用していた彫刻刀を懐から取り出し、鞘を払ったかと思うと、自分の首筋に刃を深々と突き刺した。そのまま力いっぱい横に引き、みずから喉首を掻き切った。子平には信じられない一瞬であった。
林子平は、江戸伝馬町の牢屋敷、そして土蔵に閉じ込められた。そこで凄絶な海老責めの拷問を受けた。最後は廃人同様の身体となり、国許仙台の座敷牢で生涯を閉じた。だが、彫り上げた版木の隠し場所については最後まで口を割らなかった。
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05: 林子平の先見性
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「日本橋より,唐・オランダまで境なしの水路なり」と日本国の無防備を警告して書き上げたのが、この「海国兵談」である。大槻玄沢など蘭学者の知遇を得て長崎にも何度か通った。通詞(通訳)の協力を得て、出島のオランダ人商館長からも世界情勢を学び、世界地図の模写も許された。あの時代に世界情勢を林子平は学んでいった。ロシアが南下する必然性と野心も聞かされた。蝦夷の地に渡り、その地の地勢を調べると同時にアイヌからロシアの動静を探った。
伊勢白子浦から江戸に向かった神昌丸は暴風雨に会い、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。ロシア人に助けられ、10年近く極寒の地で過ごし、ペテルブルグでエカチェリーナ2世に拝謁し帰国を嘆願したのがお馴染み大黒屋光太夫ら三名の船乗りである。その漂流民を伴い、ロシアの遣日使節ラクスマンが軍艦で蝦夷地(根室)に来航したのは、林子平が没する一年前の1792年(寛政4年)ことであった。
歴史にイフはない。だが、想像するのは勝手である。
江戸幕府の立場で、仮にスーチーの手腕(キャパシティと英訳したい)で、林子平を取調べていたならば、ラクスマンとの対面、あるいは摺り合わせは当然実現していたであろう。時期が正にオーバーラップするからだ。そしてトランスペアレンシーと称して、瓦版(かわらばん)出版社にその成り行きを発表したはずである。
閑話休題。
翌1793年ラクスマンは松前藩城下の箱館に再来日し、幕府目付役に漂流民を引き渡した。1804年には軍艦ナジェージダ号で、同じくロシアのレザノフが長崎で江戸幕府に開港を迫った。
さらには、西洋諸国で発達した遠洋捕鯨の補給基地としての外圧が一挙に押し寄せてきた。江戸幕府は右往左往するばかりで、国家の伝統ワザ、先送りで対応した。
アメリカのお馴染みペリー提督は、文字通りのガンボート外交で幕府を脅かし、開国を要求した。そして捕鯨船への必要物資補給を要求すると同時に、江戸のはるか南にある小笠原諸島の領有を主張した。その時代、すでに小笠原父島には、アメリカ人を中心に、ハワイ人やイギリス人が居住を始めていた。
林大学頭は、一冊の洋書をペリーに突きつけて、この要求を拒否した。
林子平の「三国通覧図説」は長崎出島のオランダ商館長が極秘に自国に持ち帰った。それが何人かの手を経てフランス語に翻訳されパリで出版された。林子平の死から三十九年後のことである。
フランス語版「三国通覧図説」は、オランダ船で日本に逆輸入され、幕府の蛮書和解御用書庫に納められた。洋書や蘭書の研究翻訳機関である。そこには、幕府の小笠原調査隊が島に祠を建立し「此島大日本之内也」と日本の領有を記し、江戸に戻ったとの件がある。
この事実は西暦1675年のことで、アメリカが領有宣言する、はるか以前のことである。
歴史年表に照らし合わすと、林子平がいかに先見の明があったか、驚くばかりである。
それだけではない。林子平には、蝦夷の地で、人間扱いされていないアイヌの子供のみならず女性たちからも、ひいては男たちからも慕われる優しさがあった。最初は邪険な扱いだった老名主も、最後は“先生、先生”と慕われる人間的な魅力があったと、この一冊でたっぷりと勉強させてもらった。
ヤンゴン川近くに“クラブ60”を主宰するオヤジがいる。
林子平の号“六無斎”をもじって、英米人にも分かりやすく「倶楽部シックス・ゼロ」にしたという。その心はと聞いたところ「親も無し、妻無し、子無し、版木無し、金も無ければ、死にたくも無し」が自分の境遇にそっくりだと言う。版木はどういう風に関係するかと聞くと、将来東洋一の出版社が夢だと語る。
あまりにも自分勝手なので、次回はこの名著を読ませるつもりだ。
林子平とオヤジで出来がまったく異なる。
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06: 思いつくままに
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今回この本を探し出した届けてくれたのは、佐賀の友人である。私の連想ゲームで言えば、佐賀とは葉隠れの里でもある。仙台の林子平にも、佐賀の友人にも、真のサムライ魂が引き継がれている。
もう一つ、連想ゲームを楽しむと、ミャンマーにはムショ帰りがウヨウヨいる。その中で、バリバリのNLD党員で、しかも印刷工場を持ち、印刷会社を経営している男がいる。長いこと会っていないが、機会があれば「命の版木」のエッセンスを話してみたい。
さらに、話は飛躍するが、欧米のマスゴミおよび政治家はミャンマーの刑務所を悪の巣窟のように断定する。確かに、軍事政権は反体制派の活動家を片っ端から刑務所にブチ込んだ。悪名高きインセイン刑務所をはじめとして、名だたる刑務所はほとんどが、植民地時代に大英帝国が造ったものである。
航空写真で見ると真ん中に監視塔があり、独房が光輪のように中心から放射状に広がっている。重犯罪は遠島への島流しとなった。だから、ヤンゴンから南に下ったココアイランドもイギリス・スタイルの放射状である。同じくイギリスの植民地であったインドのアンダマン諸島にも有名な刑務所がポート・ブレアにある。ここも当然ながら、イギリス式の放射状である。大英帝国が誇った陽の沈まぬ植民地は、調べてはいないが、すべて同じ建築様式のはずである。
だが、それらは非難されずに、すべては軍事政権に罪を擦り付ける。見事なほどの老獪さである。これまでの日本政府は英国から何を学んできたのだろう。
さらに話は変る。
この東西研究所の事務所の前の通り、それから後ろの通りにも小規模の印刷工場が何軒か営業している。昼夜を通しての営業なので、停電すると、地響きを立てながら、発電機が始動する。今回の「命の版木」は、ジグソーパズルの最後の一片と思っていたが、大きな大きな一片であることが分かった。読書百遍とまではいかないが、何回が読み直して、ミャンマーの人たちとの話題のきっかけとしていきたい。
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