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<ミャンマーで今、何が?> Vol.183
2016.02.24

http://www.fis-net.co.jp/Myanmar

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■日本人とミャンマー人の温度差

 ・01:60歳以降の人生を考える

 ・02:話は突然変わる

 ・03:ひとつのドキュメンタリー

 ・04:スーチーはヤワなアイドルではない

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01:60歳以降の人生を考える

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アウンサンは銃弾により、坂本龍馬も刺客の手で暗殺された。奇しくも同じ32歳という若さで人生を終えた。

「人生わずか50年」と好んで幸若を詠い、舞った織田信長は、達観したかのように48歳で、その人生を閉じた。

東洋では、数えで61歳を還暦と呼び、人生の区切りとした。その後の人生はおまけのようなものかもしれない。

それからさらに10歳年を重ねる人もいる。「唐詩選」に“人生70古来稀なり”とある。その詩を詠った杜甫は揚子江を下る船旅の途次58歳で没している。

今回は定年延長した最高司令官の話ではない。

還暦を過ぎ、古希に近づこうとする日本人がヤンゴンの下街にアパートを借りた。奥さんに縫ってもらった雑巾何枚かを持込み、トイレ、キッチン、そして室内をぴかぴかに磨きはじめた。それだけにとどまらない。近くのスーパーから、ホウキ、チリトリ、溝をすくう小型スコップを買い求め、ビル内の階段、ビル前の公道までを、毎朝一時間徹底的に掃除する。それが早朝の日課となっていった。

掃除が終わって部屋に引っ込むと、キンマの葉に包んだビンロウ樹の実(“クンヤ”ともいう一種の噛みタバコ)でペッペッとグラフィティを描くのがミャンマー人。タバコの吸殻が、そして菓子パンの包み紙も、そこらじゅうに棄てられていく。イタチごっこが続く。

これだけ汚してくれると、やりがいがあると、この日本人は言う。他人への文句は決して口にしない。ミャンマー語も英語も出来ないし、日本語は通じないからと本人は笑って言う。最後に大きく膨らんだゴミ袋を離れたゴミ箱に棄てに行く。分別の習慣がないのは楽だろうが、あれで本当に大丈夫なんですかねと頭をひねる。

ある日、同じビルに事務所を構える、そこの若い男子社員なのだろう、ホウキとチリトリを奪い取ると、せっせと自分で清掃しはじめた。頭髪が薄くなりかけた日本人を見かねたのだろうか?この国には年長者を敬う精神がある。この国にはまだまだ救いがあると、この日本人は感嘆する。

「やって見せ、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば、人は動かじ」とは、山本五十六の名言である。“クンヤ”を汚い、と罵る日本人は大勢いる。アパートの裏窓から、ゴミを棄てるミャンマー人に、文句を言う日本人も沢山いる。だが、この日本人は自分に科した日課を黙々とこなすだけである。

この日本人は、ヤンゴンで突然掃除を始めたのではない。子供時代から、こういう風に躾けられてきたという。そしてその延長線上で、故郷に近代的な工場を幾つも創立し、息子たちが立派に後を引き継いでいる。還暦を持って、本来の夢は一段落した。

自分が受けてきた子供時代の教育が、特に家庭教育が、ミャンマーで通じるか試してみたいという。それが彼の第二の夢である。中国などアジア各地を歩き、ここなら肌があいそうだと、最後にミャンマーに到達した。

すべての原点は故郷で受けた躾にあったという。学校教育ではない。欧米式の規模と効率性、そして目先の利益だけを追求する経営学など、まったく眼中にない。だが、これからは国際化の時代だ。ミャンマーの立地からしても、この国の子供たちを国際的な企業人に育ててみたい。清掃に励みながら、この日本人の夢は大きく膨らむ。

和式と書いて中国人は簡単に日本式流儀を真似たつもりでいる。ミャンマーもその影響を多分に受けている。ラーメン屋でも、掃除のヤリ方でも、本物の和式はまったく異なる。そのあたりを子供たちが身につけるのに何年かかりますかねと、この日本人は自問する。

同じビルの向かいの部屋に住む、足腰と、頭のしっかりした婦人が、早朝散歩で出入りする度に必ず両手を胸の前で合わせてこのタオルをぶら下げた日本人を拝んでいく。話を聞いてみると、今年94歳になるという。乙女のときは学校の教師だったそうだ。そして「この方は徳のある日本人です」ときれいな英語で語ってくれた。



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02:話は突然変わる

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この話を枕に、無理矢理スーチーさんに話を振りたい。

スーチー党首は、総選挙後、環境美化運動として、率先して、ゴミ拾いからはじめた。だが、レポーターやカメラマンが野次馬のようにまとわりついて、このキャンペーンは邪魔されてしまった。

話は飛ぶが、海南島における「30人の志士」たちも、軍事訓練に先立って、日本人教官は訓練場のゴミ拾いを指示した。武器弾薬での訓練を期待していたビルマ青年にはこれが不評だった。だが、リーダーのアウンサンは、基本の基本を尊ぶ日本人のヤリ方を見抜き、忍耐の必要性を説き、若者たちの怒りをなだめていった。ゴミ拾いは清掃人の仕事という英国式エリート教育が、ミャンマーでは、昔も今も身に染み付いている。

もうひとつスーチー次期政権が心血を注いでいる、未来への大きなプロジェクトがある。教育問題である。国づくりはなんといっても子供たちの教育にある。世界各国が支援の手を差し伸べようと殺到している。だが、日本にその資格があるのだろうか。欧米にその資格があるのだろうか。アセアンの先発組みにその資格があるのだろうか。

英語教育の失敗を、小学生にまでプレシャーをかけ、、糊塗する国家に、はたして子供の教育を任せられるだろうか。経済成長率と株価しか頭にない先進国リーダーに必要なのは、他国の支援ではなく、自国の次世代の教育ではなかろうか。

今の世の中、徳のある人間、品格のある国家は、そうざらにはない。ビクトル・ユゴーの“レ・ミゼラブル”、日本語では“ああ無情”、あるいは、アレクサンドル・デュマの“モンテクリスト伯”、あるいは“岩窟王”に匹敵するスーチーさんの体験・思想から学ぶことは多々ありそうだが、海外のエコノミック・アニマルから学ぶことは本当にあるのであろうか?



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03:ひとつのドキュメンタリー

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話をそろそろ核心にもって行きたい。

英国の“インディペンデント”紙外国特派員ピーター・ポパム著「アウンサンスーチー 愛と使命」が関係者からの聞き取り調査を綿密に行い、アウンサンスーチーの半生を丁寧にまとめているので、今回はそれを大いに参考にさせてもらった。

マンダレーから、イラワジ河を渡り、北西に広がるのがサガイン地区である。
2003年5月29日午前9時、NLDの7台の車列と20台のバイクは、西に向けてマンダレーを出発した。自宅軟禁を解かれるたびに、民衆と接する重要性を認識したスーチーの全国行脚の一環である。

旅程は軍政の公式の承認を得たものだった。スーチーは同行のNLD党員たちに、軍隊のどんな一部とでも、衝突に至るような言動や行動を絶対とらないように警告した。彼女は、もし攻撃を受けても、やり返してはならないと言った。仮に打ち据えられ、殺されても、絶対に反撃してはいけないという意味である。必死の覚悟がなければ、こういう言葉は口にできない。

徹底してガンジーの非暴力を踏襲するものだが、生半可な外国人の理解をはるか超えたところに、その決意はある。スーチーは、彼らが直面する潜在的な危険を十分認識していた。

前回の解放後のもっとも緊張が高まった1996年11月、USDAの書記長で運輸相であったウィンセインは、マンダレー近くの村人を集め、アウンサンスーチーを殺すことが君たちの義務だと語った。スーチーは国内の政治的混乱をもたらす者で、かならず、撲滅せねばならないと。ウィンセインは、撲滅の意味が分かるかと村人に問いかけた。撲滅とは殺すことだ。スーチーを殺す勇気があるか? この質問を五、六度繰り返したが、誰も返事をしなかった。

ここで出てくるUSDA(連邦団結発展協会)とはテインセイン大統領率いるUSDP(連邦団結発展党)の前進で、ビルマの支配政党の名前である。その内実は、あらゆる社会階層の一般ビルマ人を取り込み、その数百万人に及ぶ党員には特別の便宜が与えられた。道路の舗装から、パソコン講座まで、甘い人気取り政策で、民衆の関心を買った。だが、これは表面的なこと。

このUSDAにはまったく別の、怖ろしい、下劣きわまる、側面がある。

暴漢、窃盗犯、アル中、麻薬中毒者など、失うものが何もない連中の汚れ仕事の訓練および養成である。彼らを汚い仕事に使えば、軍隊が非難の矢面に立つことはない。牢獄の扉を開き、囚人に酒と麻薬と野蛮な武器とわずかな賄賂を与えて、野に放すだけで、彼らは残酷な野獣となり、軍部は高みの見物を楽しめばよいという戦略だ。

2003年5月末、スーチー一行の先頭は、数百メートル先を行く偵察車で、そのあとにスーチーの乗った濃いグリーンのトヨタ、運転しているのは法学科の学生でNLDの法律担当、それに続く二台の車に、副議長のティンウーらNLDの幹部、そのあとに地元の支持者たちの車が続いた。全体の人数は百人ぐらいのグループだった。

彼らを襲撃する態勢は、周到に準備されていた。6日前、この地区の国軍当局は、マンダレー北方100キロ、シュエボの町を中心とした町や村から地元USDA協会員を招集した。その数は約5千人。襲撃の訓練をするために、50台以上の大型トラックと10台のピックアップトラックで、これら暴徒をディペイン高校のグランドに送り込んでいた。

攻撃の日、彼らに武器が渡された。竹の棒、野球のバット、先を尖らせた鉄棒、野蛮な道具、その多くは地元の鍛冶屋で特別に作らせたものだった。

NLDが出発して、2時間も経たないうちに、サガインの町に近づいた。数百人のUSDA協会員が一行を待ち構えていた。「USDAを支持しない人びとは必要ない」と書かれた看板を掲げ、そのスローガンを機械的に叫んでいた。その人数は約600人。しかし、その数は背後にいる数千人の町の住民と比べれば小数で、「ドー・アウンサンスーチー万歳」の叫びにかき消された。

NLDが正午に着いた別の場所では、もっと大勢のUSDA協会員が集まっていた。だが、ここでもスーチー支持者の数はそれを上回る圧倒的な人数で、USDAは何もできなかった。この間ずっと彼らは、地元警察と国軍情報部のスパイに逐一監視されビデオに撮影されていた。

午後6時にはモニワの町に到着したが、そこでは停電が待っていた。国軍はスーチーが訪問する予定だった地元の僧院長を公用で外出するよう仕組んでいた。しかし、何をやっても、地元の住民は膨れ上がる一方で、その人波にUSDAは手を下すことができなかった。

町の支持者の家で一泊した翌朝、町の中心にある建物のバルコニーから、スーチーは大衆に話しかけた。モンスーン期のはじまるまえの5月は、上ビルマ地方では一年のもっとも暑い季節だった。だが、暑さのために民衆は気勢をそがれることはなかった。実に、町の全住民がここに集まったのである。

スーチーが演説する建物の前の広場はぎっしり埋まり、広場につながる街道や横道にまで人、人、人が溢れた。焼けつくような暑さの広場に2万人が詰めかけたという。

もう旅は一月近く、解放以来もっとも長いキャンペーンとなった。スーチーは力強く、流暢に、メモなしで演説した。聴衆が拍手し歓声をあげると、笑みを浮かべ、聴衆に感謝するように顔をそれぞれの方向に向け、魅力的な自然な仕草で、うなずいた。

国軍やUSDAは巧妙に、スーチーとNLDの通過は許したが、それに付き従う支持者たちには、スーチーの目の届かないところで、ありとあらゆる妨害をした。マッチや、棍棒、パチンコなどでの実力行使で。それは次第にエスカレートし、待ち伏せしていた警察が、殴り、蹴り、そして彼らを逮捕した。

一行は、農村の平坦な水田地帯の奥深く入り、大きな町から遠く離れ、外交官やジャーナリストの目からは完全に遮断されていた。

サインビンという小さな町で、スーチーは、先の選挙で当選し、いまだ収監中の地方選出NLD議員の家族と感動的な出遭いを果たした。その間、スーチーのボディガードは、一台の車をその先の道路の偵察に送った。不吉なことに、車は戻ってこなかった。さらにバイク数台を送ったが、これもまた消えてしまった。

まだ次の目的地までは遠く、闇が迫っていた。一行は、道の土地を手探りするように走っていた。後ろには敵対的な国軍が追跡し、前方にはどんな罠が仕掛けられているか、知るすべもなかった。

チーという小さな村に達したとき、あたりはすっかり闇だった。ここで停車する予定はなかった。村を過ぎたところで、スーチーの車のヘッドライトが、道の端に座る二人の老いた僧をとらえた。車が近づくと、僧は「総会であいさつしてもらえないか」と問いかけてきた。

運転手はスーチーに「停まってはいけない」と忠告した。「昨日からスーチーが来るのを待っていた」と老僧は語った。「話とあいさつをしてほしい」と二人は懇願した。どのような状況下でも、このような老僧の願いを断わるのは非礼の極みとなる。スーチーは罠に落ちだ。

この二人は僧ではないどころか、USDAの送り込んだ詐欺師であった。車列が道路上で停車したとき、USDAの演出した恐怖がスーチーとNLDに襲いかかってきた。

後をつけてきた4台の車輌、2台の大型トラックと2台のピックアップが、唸りを上げてNLDの車列の脇に突っ込み、反アウンサンスーチーのスローガンを叫ぶ武装した男たちが荷台から駆け降りてきた。

何事が起こったかと、家から飛び出してきた地元の村人が、USDAに叫びはじめると、USDAの暴漢らは鉄棒や竹棒やバットで村人たちを襲いはじめた。大型トラックの1台は、ヘッドライトに照らされた村人に突っ込んでいき、村人たちは散り散りになって逃げ出した。このとき、待ち伏せしていた大量のUSDA部隊(目撃者談では4千人)が道路の両脇から現れ、NLDの車とバイクに乗った従者と地元支持者に殴りかかっていった。

ボディガードのひとりは証言している。「絶望的な状況だったが、勇気を見せようと、体を張って二重にスーチーの車を取り囲み、スーチーを守ろうとした。暴力を使ってはいけないと言われていたので、それしか方法はなかった。われわれの後ろにいた全部の車は攻撃を受け、NLD党員を容赦なく打ち据えていた。連中は麻薬を打っているか、酒に酔っ払っているように見えた。」

「若者も女性も全員殴られていた。鉄棒を使って車の中を叩き、NLD副議長のティンウーも頭を殴られ、引きずられていった。ティンウーは頭から血を流していた。襲撃者は女性たちを殴り、ロンジーとブラウスを剥ぎ取り、髪の毛を掴んで、身体が動かなくなるまで、頭を舗装に叩きつけていた。襲撃者たちは、大声で、死ね、死ね、死ねと叫び続けていた。あたりはすべて血の海で、死ぬまで容赦なく殴られていく地獄を、自分は一生忘れられない。」

何がスーチーの命を救ったのか?

この襲撃を担当した士官たちは、スーチーの車が先頭だとは予想していなかったようだ。それが最初の攻撃が車列の後列に集中した原因だった。このボディガードの回想によれば「USDAの暴漢たちがスーチーの車に近づいてきたので、われわれは攻撃に備え気合をいれた。」

「暴漢たちは最初にスーチーの車の左側、外側の環の同僚を殴り、車のガラスを割った。同僚たちは一人、また一人と倒れ、暴漢たちは、防御の内側の環を思い切り殴りはじめた。暴漢たちは、われわれがやり返さないことを知っていた。攻撃は左側に集中した。」

「車の中では、運転手が、攻撃をやめるよう暴漢たちに懇願していた。運転手が中に誰が乗っているのか告げると、暴漢たちは逆にさらに燃え上がった。」

その瞬間、運転手はギヤをバックに入れると、アクセルを思いっきり踏み込んだ。車は後ろに向かって突進した。攻撃側はスーチーの車を雨あられのように殴りはじめた。前後のウィンドウを叩き割り、サイドミラーとヘッドライトを壊し、車のボディもボコボコにした。

後ろ向きに走らせる先には、傷ついた仲間たちが道一杯にのた打ち回っていた。轢いてしまうのではと恐れた運転手は再び向きを変えた。だが、道の前方はトラックで塞がれていた。路肩に寄せて何とかすり抜けたが、数十台のトラックに向き合っているのが分かった。トラックのライトはさらに多くの、約2-3百人の暴漢たちを照らし出していた。彼らに向かって突進するとUSDAの連中は驚いて立ち尽くしていた。

NLDのボディガードたち何人かは必死で車にしがみついていた。暴漢たちに近づき過ぎれば、ボディガードたちは剥がされてしまう。そこで、USDAの連中を轢くそぶりを見せて突進すると、襲撃者たちは散り散りに逃げはじめた。そこで、道路に戻り、走り続けた。

前方の暗闇にも多くの道路封鎖が見えたが、すべて突破することに決めた。道路封鎖で停車すれば殺されるとスーチーを含めて車上の全員が理解していた。目一杯のスピードで、トラックのバリケードをすり抜け、道路に向け銃を構える警察の列と、兵士の一団を突破した。

スーチーはシュエボに着くまで停まるべきではないといったが、そこまでは行けなかった。イエウーの町に入ると、武装した守備隊が強制的に停止させ、誰が乗っているのか告げるよう要求し、その場で待機させられた。30分後、大勢の兵士で構成された分遣隊が現れ、大隊長が運転手のこめかみに銃を押し当て、彼らについてくるよう命令した。そして、イエウーの監獄に連れて行かれた。

これをディペイン虐殺事件という。
スーチーは運転手の勇気と技量で大きな怪我もなく生き延びることができた。だが、約70人の支持者の命が奪われた。

その後、明らかになったことは、上級大将タンシュエが虐殺を命じたことを認め、その目的はアウンサンスーチーの“撲滅”だったと認めた。



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04:スーチーはヤワなアイドルではない

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ミャンマー人は、このディペイン虐殺事件を、常識として、多くの人が知っている。それを知るミャンマー人たちが投票した昨年11月の国民総選挙で、スーチー率いるNLDが雪崩現象の大勝を勝ち取った。

ヤンゴンの日本料理屋では、スーチー率いるNLDでは経済発展に支障が出るかもしれないと、多くのビジネスマンたちが心配顔である。

欧米のジャーナリストたちは、経済発展だけでなく、ヤンゴン川のように混濁した、ミャンマーの多彩な顔を、独自の取材で、報道しようとしている。

過日の報道、タンシュエとスーチーの会談、そしてタンシュエの孫のソーシャル・ネットワークでの一言。それらをどう分析し、評価するかは、あなたご自身のお仕事である。

反省:文章は簡略に手際よく!長すぎるのは駄文のはじまりだ。



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