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<ミャンマーで今、何が?> Vol.126
2014.12.24

http://www.fis-net.co.jp/Myanmar

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■ウ・タント物語

 ・01:“ウ・タン危機”事件

 ・02:ウ・タンとはどんな人だったのだろう?

 ・03:省略

 ・04:このメルマガは2014年の最終号です。

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「ギョウテとは俺のことかとゲーテ言い」ではありませんが、ミャンマーと日本の発音では戸惑うことが多々あります。初めてのミャンマー訪問で、貨幣単位のKyatを“キャット”と発音したらキャッキャッと笑われました。ですが、あれをチャットと発音できるのはこの世でミャンマー人以外にいないと今でも思っています。何時か仕返しをと考えていました。あるとき“盗聴”というので、軍事政権ではさもありなんと声を潜めると、何のことはない日本の首都Tokyoのことでした。それならKyotoはチョウトかと質問すると、それが大当たりだったので、一人感激したことを憶えています。日本帰りのミャンマー人でも、“盗聴” “長途”と発音する人が大勢います。本当に所変われば・・です。

ところで、ミャンマーの超有名人ウ・タントさんも同様で、日本ではスペルどおりに発音してウ・タントですが、ミャンマーでは無声音の“ウ・タン”となります。

今週号はそのウ・タンを取上げました。世界の外交舞台で偉大な功績を残した、ビルマの誇る第三代国連事務総長です。表題は日本式にウ・タントとしましたが、話の中身は、郷に入りてはで、すべてウ・タンに統一しました。呼び捨てのようですが、接頭辞の“ウ”はお馴染みの敬称です。



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01:“ウ・タン危機”事件

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ウ・タンは1974年11月25日肺がんのためNYの病院で亡くなった。ネーウィン大統領はウ・タンの国際的名声を当時嫉妬したといわれる。ビルマの生んだ偉人の訃報に何の敬意も払わず、無視し続けたと、報道記事には書いてある。

ネウィンはウ・タンと親しかったウ・ヌー民主政権が気に入らず、1962年3月2日のクーデターでこれを倒し葬った。そういうわけで、ウ・タンの葬儀には式典は行われず、それどころか。政府関係者の葬儀出席を厳重に禁じた

NYの国連本部ではウ・タンの棺が安置され公開された。最後の別れには各国政府高官が列を成した。ラングーンに空輸された遺体は、栄誉礼もなく、高官の出迎えもなかった。ひっそりと教育省のウ・アウントゥン副大臣が棺を出迎えた。その後、この副大臣は解雇されている。

ウ・タンは息を引き取る直前、遺体はミャンマーに埋葬するよう家族に指示した。このニュースはすぐさま母国にもたらされた。12月1日、ラングーンのミンガラドン空港からチャイカサン競馬場までウ・タンの遺体は当局が運んだ。ネウィン政権は遺体を一般墓地に埋葬する計画だと発表した。全国の大学生たちは激しく怒った。世界中から敬意を持たれ、世界平和の象徴とされた、ビルマの生んだ偉大な政治家に、十分な敬意が払われないからだ。

12月5日の朝、学生たちはラングーン大学の大会堂前に集合し、葬儀の花輪を手に、悲痛な面持ちでチャイカサン競馬場まで行進した。何千人という群集がラングーンの沿道に並んだ。最後の別れと敬意を表すためだ。埋葬予定前の数時間、ウ・タンの棺はチャイカサン競馬場に安置され一般公開された。遺体が墓地に運ばれようとしたまさにそのとき、一人の学生がステージに駆け上がり、「世界平和の象徴であるこの遺体を一般墓地に埋葬するのは適当ではない。我々は式典を挙行し、偉大な政治家に相応しい場所に埋葬したい。」と表明した。この提案は、その場にいた全学生、僧侶、一般の人たちに受入れられ、学生たちは遺体をジープに載せ、大学のキャンパスに向かった。

遺体は大会堂の前の仮ステージに安置された。学生たちは次から次にステージに上り、軍事政府の不公正さ、圧政、残忍さを激しく非難した。6日、7日、8日と聴衆の数は次第に膨らんでいった。ウ・タンの遺体に最後の別れをと大勢の人たちが集まってきた。その翌日、大学キャンパスに残っているものは当局がすべて逮捕するとウワサが流れた。

12月11日早朝午前2時、政府軍が大学構内を急襲した。仮霊廟の見張り役の学生何人かが殺され、ウ・タンの棺が強奪された。そして当局はシュエダゴン・パゴダの麓に埋葬した。現在もウ・タンはそこに眠っている。

余談だが、10年以上も前の話だ。この霊廟を突き止めるのに、当時のワタシは数年間も費やした。誰も知らないと言う。聞いた相手が悪かったのか聞いてはまずかったのか、何ともいえぬ不気味な時代であった。ウワサの断片から推理して、当時のシャンカン(香港)レストラン敷地内と池の周りが臭いと睨んで、休日ごとにあの辺りを歩き回った。中らずといえども遠からずだったが、すべては無駄足だった。

この大学急襲と強制的な棺強奪事件を聞きつけ数多くの群集がラングーンの大通りに繰り出した。ラングーンおよびその周辺にも戒厳令が敷かれ、政府軍によって力づくの弾圧が行われた。ネウィン政権のウ・タンに対する私怨とも思われる冷たい卑劣な処遇へ激怒し、学生たちが蜂起した。これが“ウ・タン危機”として後世に知られる有名な事件のあらすじである。

2012年4月、潘基文・第8代国連事務総長はシュエダゴン・パゴダ南門近くの霊廟を訪れ、国連を代表して敬意を表した。



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02:ウ・タンとはどんな人だったのだろう?

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イラワジ地区パンタノウ町の出身で、国民高校とラングーン大学で教育を受けた。英国植民地時代の1909年生まれだからアウンサン将軍よりも6年先輩となる。1931年には、全国教員免状試験で首席となり25歳で校長となった。“ティラワ”のペンネームで新聞や雑誌に寄稿し、数多くの本をビルマ語に翻訳した。ウ・タンはスタッフォード・クリップ卿、孫逸仙、マハトマ・カンジーの影響を強く受けた。ビルマ国内で政治的緊張が昂まる中、過激な民族主義者と英国同調派との間で、彼は穏健派の立場を貫いた。

ビルマ独立後の初代大統領となったウ・ヌーの親友で、1948年から1961年までウ・ヌー内閣の要職をいくつか担った。ウ・ヌーの演説原稿を書き、海外旅行、そして外国人との会見には常に首相に付き従い、ウ・ヌーの側近・顧問として信頼された。1957年から1961年はビルマの国連常任大使となり、1961年には国連でコンゴ委員会の議長となった。ウ・タンの控えめで冷静な判断は同僚から賞賛された。

1961年9月、国連事務総長ダグ・ハマーショルドがコンゴへ向かう飛行機の墜落事故で亡くなった。当時の二大強国、米国とソ連の間で、次の事務総長をめぐって人選が大揉めに揉めた。1961年11月3日、安全保障委員会が推薦したウ・タンが国連総会で第三代国連事務総長として満場一致で承認された。

キューバ・ミサイル危機の際、ウ・タンはJFK米国大統領とフルシチョフソ連首相を仲介し、世界危機をすんでのところで回避した。1966年12月には、安全委員会の全員一致で2期目の事務総長に指名された。

ウ・タンはベトナム戦争における米国の活動を公的に非難したことで知られる。そして、新たに独立したアフリカやアジアの国々を国連に加盟させた。国連事務総長として第3期目を嘱望されたが、頑なに辞退し、1971年に引退した。



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03:省略

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キューバ危機は、ケネディとフルシチョフの真剣勝負で、一歩間違うと核戦争への突入一歩手前まで行ったが、それを回避した手腕はウ・タンにあるが、そのドキュメンタリーは紙数の都合で省略した。その当時のケネディとの絡み、フルシチョフとの絡み、カストロとの絡み、これらもすべて省略した。

ウ・タンの功績に各国政府・有名団体・大学などから、栄誉・賞・学位が授与されたが、それも省略した。それらはスーチーさんに勝るとも劣らないものである。1965年のノーベル平和賞が直前にウ・タンからユニセフに変わったエピソードも省略した。スーチーさんの国連勤務時代、ウ・タンが面倒を見た話も省略した。

NYのイースト・リバーにある小さな島がウ・タンを記念して、その名前で呼ばれるが、その経緯も省略した。

だが、省略できないことがある。それは今年がウ・タン没後40周年である。忘れてはいけない。



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04:このメルマガは2014年の最終号です。

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今年一年間も、お付き合いいただき、ありがとうございました。

2015年は、ミャンマーがますます面白くなりそうです。

冷え切った日本と違い、ミャンマーはますます暑く、そして熱くなります。

皆さまのご健康と、ご幸運をお祈り申し上げます。





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