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<ミャンマーで今、何が?> Vol.117
2014.10.22
http://www.fis-net.co.jp/Myanmar
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■ヤンゴン歴史散策‐アルメニア正教会
・01:アルメニア正教会
・02:ストランド・ホテル
・03:サーキーズ兄弟
・04:アルメニア正教会最高総主教
・05:ディアスポラ
・06:ヤンゴン・ヘリテージ建造物
・07:歴史を織りなすヤンゴン
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01:アルメニア正教会
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ヤンゴンのダウンタウン(下町)の中心ともいえる、南北に走るボー・オンチョウ通りと東西に走るマーチャント通りの南西の角地にひっそりと佇むのがアルメニア正教会である。庭内はほとんど手入れされておらず、夏草の茂るに任せたままで、東側の鉄柵の前では、路上の飲食店がおもちゃのような椅子を並べて数人の地元客を相手にしている。それでも昼飯時にはいっぱいのお客でにぎわっている。そしてもう一方の北側の路上では鳩の餌を小皿に分けて、動物愛護の精神に満ちた地元の人たちを相手に地面に座って商売をしている。それを十分ソロバンにいれた鳩たちが、頭上の電線、そしてレインツリーの枝々に鈴生りとなり、お客の来るのを待ち構えている。もうひとつの歴史名所、ガンジー・ホールは通りを隔てたその向かいにある。
だから、その鉄柵の中にあるアルメニア教会に注目する観光客はほとんどいない。むしろ、鳩の巻き上げるホコリを避けて足早に通り過ぎるか、葉巻を口にくわえ、トウモロコシの小皿を山と積んだ鳩商売の女性たちを写真に納めて、息を止め駆け出していく欧米人の観光客を見かける程度である。
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02:ストランド・ホテル
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最近ヤンゴンを訪れた観光客、ビジネスマンたちが、高騰するホテル代に音をあげているが、ヤンゴン川に面して建つ1901年開店のストランド・ホテルの宿泊代金はこれまでも最低料金が一泊400−600ドルであった。そして24時間のバトラー(個人秘書・執事)待機が当ホテルの売りでもある。ここは世界のセレブご用達の宿泊先だ。こせこせした銭勘定に縁のない富豪たちがここに集まってくる。米国金融界の大物ロックフェラー何世、ローリング・ストーンズの大御所ミック・ジャガーが宿を取り、そしてネパールの王女がお忍びで BFと宿泊したとのウワサもある。もっと古くを紐解けば、サマーセット・モームも、ノエル・カワードもここで荷を解いた。
そのストランド・ホテルから東に向かって散策すると、右手はヤンゴン川で、左手隣がオーストラリア大使館、続いてイギリス大使館・領事館、そして豪壮なレンガ作りの中央郵便局と並ぶ。この中央郵便局は今歩いてきたストランド通りとボー・オンチョウ通りの北東の角地にあり、そこを左折すると、次のコーナーが今回の歴史案内のアルメニア正教会である。ここまでゆっくり歩いても10分とかからない。そこをまた左折して、次にもう一回適当に左折すると、またもとのストランド・ホテルに戻ってくる。これだから、チェスボード・パターン(碁盤の目状)の街並みは分かりやすい。
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03:サーキーズ兄弟
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ビルマは大英帝国の植民地で、それを象徴するストランド・ホテルは当然のことながら英国人の建造・経営と思われているが、それは大きな勘違いだ。
東南アジア一帯に壮麗なコロニアル・ホテルを次々に成功させた伝説のホテル王、サーキーズ兄弟はペルシャのイスファーハンで生まれたアルメニア人である。
長男がマーティン・サーキーズ(1852−1912年)、次男ティグラン(1861−1912年)、三男エイビエット(1862−1923年)、四男アルシャック(1868−1931年)の四人兄弟である。
当時のイスファーハンはシルクロードの東西交易のハブであった。東西双方向から持ち寄られた商品を保管する倉庫がずらりと並び、近隣の農産物の集散地でもあり、ワイン好きには垂涎のシーラーズ・ワインの生産地も近くにある。そして絨毯や銀銅細工などの伝統工芸品の産地でもあり、ラクダや馬などのキャラバン・サライも整っていた。しかし、時代は変わり、海上交通は帆船から蒸気船の時代に移り、1869年(明治2年である)にスエズ運河が開通してから、英国からインドへの航海距離は喜望峰を廻らずに半分になった。当然運賃も運送費も安くなった。陸路は廃れ、世の動きは海上運送に切り替えられていった。そしてイスファーハンは忘れ去られていった。
スエズ運河の開通で東南アジアに押寄せた欧米人旅行客とビジネスマンはインドを経営するイギリス人だけではなかった。アジア往き観光旅行が一般大衆化したのである。イスファーハンに見切りをつけたサーキーズ兄弟は大衆旅行客に目を付けた。ホテル事業はビジネスになる、それもローエンドではなく、高級セレブを狙おうと。
そして、1884年にマレーシア・ペナンのジョージ・タウンにイースタン・ホテルを開設した。続いて1885年、同所にオリエンタル・ホテルをオープン。1887年にはシンガポールにラッフルズ・ホテルをと立て続けに高級コロニアル・ホテルをオープンしていった。それから、大英帝国が本格的な植民地経営に乗り出したビルマのラングーンの候補地選定に入った。
イラワジ川の支流ヤンゴン川はベンガル湾の一角マルタバン湾に流れ込む。大英帝国の海図を見るとその河口にエレファント・ポイントと名付けられたランドマーク(陸標)がある。そこから広大なヤンゴン川を約30km遡ったところにモンキー・ポイントと名付けられたもうひとつの陸標がある。ここはヤンゴン川にバゴー川が注ぎ込む合流地点だ。ここの対面は今、日本の企業連合が集中的に工業団地を形成しようとしているティラワ深海港である。ここからさらに約30kmヤンゴン川を遡ると水深の浅いラングーンの河川港桟橋(ジェティ)が連なっている。
今で言えば、下町のヤンゴン川に面した一等地にストランド・ホテルは建設された。先述したオーストラリア大使館とイギリス大使館・領事館はお隣さんであり、このストランド通りを反対の西に歩くと、ヤンゴン港の総元締めである港湾局の高い塔が昔は市内どこからも見上げることが出来た。
話をストランド・ホテル初期に戻すと、長い航海の末にイギリスから蒸気船がラングーン川の入口、エレファント・ポイント、に差し掛かる頃、ホテル屋上の監視員が蒸気船のたなびく黒い煙を見つけ、歓迎の準備態勢に入った。蒸気船は今のナンティダ・ジェティの前の中流域に錨を下ろし、迎えのサンパンがひっきりなしに往復した。紳士淑女たちの荷物は大勢のインド人クーリーが荷卸しし、遠来のお客に大きな日傘が差しかけられた。ホテルの玄関から真正面の上陸地点までレッドカーペットが敷き詰められ、真っ白い制服を着たインド人の吹奏楽団が‘ゴッド・セーブ・ザ・キング’を演奏した。ビクトリア女王は1901年1月22日に崩御したため、クイーンからキング(エドワード7世)の治世となった。半分裸のビルマ人たちが好奇心に満ちた目で見守る中、この国の主人であるイギリス人は王侯貴族然とした優雅な態度で周りを睥睨していた。そして夜毎に開催される舞踏会では華やかに着飾った紳士淑女が社交ダンスとかいう奇妙なゲームをしていた。地元のビルマ人は大きな窓から漏れる明かりと聞こえてくる西洋音楽にうっとりしていた。だが、ビルマ人が館内に立ち入ることは厳しく拒まれた。
そしてストランド・ホテルのすぐ近くにはトーマス・クック旅行社のラングーン支店もオープンした。
ついでに説明すると、オーストラリアという新興国が建国されたのも、ストランド・ホテルと同じ1901年のことである。
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04:アルメニア正教会最高総主教
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アルメニア正教会は東方正教会の流れを汲み、ヤンゴンのアルメニア正教会は、日曜日の礼拝日に関係者とロシア大使館のスタッフがわずかに訪れる程度で、年々訪問者は先細りと言う感じであった。
ところが今年10月1日(水)、日曜日でもないのに、そのアルメニア正教会が大勢の参拝客に見舞われた。これは異常な光景であった。
アルメニア正教会の最高位にあるカレキン最高総主教が重厚な真っ黒な僧衣とフードをまとって、この日、ヤンゴンのアルメニア正教会を訪れたのである。
この古びた教会は1862年に建立され、翌1863年からラングーンに住むアルメニア人にミサを行ってきた。蛇足ながら、明治維新の5年前の話である。
アルメニア人がこの地に定住しはじめたのは18世紀からで、1800年代のアルメニアン人口は数百人を数え、それが絶頂期であった。当然その中にはサーキーズ兄弟も入っていたことだろう。だが、時代の変遷と共に、その数は減少して、現在のアルメニアン人口は片手で数えられるほどだという。しかも、その大半はこの国が開放された2010年以降の移住である。
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05:ディアスポラ
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歴史的にはバビロンの捕囚以来、ユダヤ人のケースが有名だが、この世には政治的・民族的・宗教的・文化的迫害によって大量殺戮されたり、親族同胞の離散家族が世界をさまようケースはいくらもある。それをディアスポラと称して、アルメニア人もその歴史をかい潜ってきた。その端緒は中世時代、ペルシアとオットマン両帝国間の争いで、祖国は戦火に焼かれ、同胞はヨーロッパへ、そしてアジアへと離散していった。
そして17世紀以降、ダッカ、ニューデリー、シンガポール、ラングーンがこのアルメニア人社会を受入れるホスト地となった。
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06:ヤンゴン・ヘリテージ建造物
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ヤンゴンの4年前のアルメニア教会は荒れ放題で、庭園内も夏草の繁茂するままであった。それは悲惨そのものであった。シンガポールからの基金援助も得て、少しずつ手入れをして現在回復途中にある。シンガポールのアルメニア人社会ですら、10年前には約12名の住民しかいなかった。それがいまでは、100人を越える人口となっている。
実は今回の総主教の教会訪問は、元国連事務総長の孫に当たるタンミエンウー氏が会長を務めるヤンゴン・ヘリテージ基金が取り付ける三番目の歴史プレートの設置日にあたる。
ヤンゴンには多種多様な宗教建造物が残っている。その中でもこのアルメニア正教会はもっとも古い歴史的な建造物のひとつであろう。
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07:歴史を織りなすヤンゴン
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このようにヤンゴンには歴史的建造物がひっそりと眠っている。特に世界中の交易商人たちが参集したラングーンは各民族の宗教の宝庫でもある。本来は心の平穏を願うはずの仏教徒とイスラム教徒が武器を手にして暴力沙汰を起こすなど、時代錯誤もいいところだと思うが、歴史を紐解くと、その原因は宗教ということがあまりにも多すぎる。人類は万物の霊長というが、あまりにも傲慢ではなかろうか。自分のテリトリーに根をおろし満足する植物の偉大さにその地位を譲ったらどうだろう。
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