<センチメンタル・ジャーニーザ・レディー>
1991年のノーベル平和賞授与式典が通常通りノルウェーのオスロで開催された。しかし、それは主のいない式典であった。代わりに長男のアレキサンダー・アリス(当時18歳)と次男のキム・アリス(当時14歳)が母親の受賞スピーチを代読するという寂しい心痛む出来事であった。だが、それは授賞式会場だけでなく衛星ニュースを通じて世界中の人々を感動させる授賞式となった。
1997年に前立腺ガンと診断され、その後で末期癌であることが判明した夫のマイケル・アリスは妻に再会するために必死のミャンマー入国を申請する。しかし、その都度ミャンマー政府から拒否される。当時の米国政府、国連事務総長コフィ・アナン、バチカンのジョンポール2世教皇など各界の著名人および諸団体がビザの発給をミャンマー政府に必死で訴えるが、適切な医療施設がないという老獪な口実で頑なに拒否される。代わりに、ミャンマー政府はスーチーが夫を見舞うため出国するよう執拗に促した。
再入国で阻止できるとするミャンマー政府の意図を感じ取ったスーチーは心を鬼にして出国を頑強に拒絶する。もう一人のアイアンレディーが生まれた瞬間である。
密かに大使館員に匿われたスーチーはヤンゴンの英国大使館内に設えたビデオカメラの前に静かに着席する。英国政府によるせめてもの配慮である。最後の病床にあった母親を看護するためにスーチーがラングーンに戻った1988年以降、夫と再会できたのは僅かに5回。ミャンマーの湖畔にある自宅での家族水入らずは1995年のクリスマスが最後であった。庭園で摘み取った可憐な花をこのとき夫妻はお互いに贈りあったという。その同じ花を後ろ髪に飾ったスリムな女性がじっとビデオカメラを見つめ静かに語りかける。これが夫に対するこの世での最後の言葉であることを痛切に感じながら。
スーチーは英国オックスフォード大学のセイント・ヒューズ・カレッジで1969年に哲学・政治学・経済学でBAの学位を取得している。卒業後NYの国連に3年間勤務。オックスフォード時代1年後輩のマイケル・アリスと知り合い、NYからは毎日将来の夫となるマイケルに手紙を書いたといわれている。そして1972年、ブータンに住んでいたチベット文化を研究するこの学者とスーチーは結婚。ロンドンに戻り二人の息子が生まれる。と同時にスーチーはロンドン大学で東洋学アフリカ学の研究を続け1985年にPhD(博士号)の学位を取得している。
したがって、オックスフォードでの16年間という生活はスーチーにとって、そして家族のひとりひとりにとっても、平凡なだけに最も貴重な凝縮された平和な時間だったのでは。その生活のひとコマひとコマがスーチーの脳裏をよぎったことだろう。物音ひとつしない大使館の一部屋で作動するビデオカメラのレンズ、その一点に彼女のほとばしる精一杯の愛情を注ぐ。いつもは雄弁なスーチーが愛する夫への別れの言葉をもどかしいほどに探しながら必死に語りかける。ヤンゴンの英国大使館の一室である。
英国の諜報機関は撮影したばかりのビデオを秘密ルートで国外に持ち出した。検閲を通さないスマグルという名前の密輸である。秘密ルートを使っての一刻を争うビデオが夫のもとを目指す。夫マイケル・アリス博士が息を引き取ったのは彼自身の53回目の誕生日、1999年3月27日のことであった。必死の計らいで手配したビデオメッセージが到着したのはその死の2日後であった。
父親のみならず最愛の夫まで、非情な状況下で奪われたスーチーはそれにも耐え自宅軟禁中に宗教書(特に仏教書)、歴史書、偉人伝などを手当たり次第に読み漁り、特に東洋が生み出した偉大な魂マハトマ・ガンジーの「非暴力」に強く感銘する。この非情な運命を背負わされた彼女の人生経験は並みの国家元首・首脳たちが到底到達できないほどに高度な思想的レベルに達しているのではと凡人は想像する。
ビルマ独立後初の英国首相によるミャンマー入りがこの4月の補欠選挙後に実現した。デイビッド・キャメロン首相がその人である。たった一日のミャンマー公式訪問。ネイピードのテインセイン大統領およびヤンゴンのスーチー議員と会談した。その時、キャメロン首相はスーチー議員にこの6月に貴女の愛するオックスフォードを訪ねませんかと正式に招待している。これまでは政府によるヤンゴン再入国拒否を恐れて丁重にその申し出を断るところ。今回は"多分"と実に微妙な返事をしている。したたかで老練な英国政府のトップがただ単に外交辞令の招待をしたとは思えない。根回しとは日本だけの特許ではなく、今では世界の共有財産ともなっている。スーチー議員の微妙な変化からこれを読み取るべきである。下種の勘繰りでいえば、ジェームスボンドの国の首相は、当然テインセイン大統領との会談の際にスーチー議員の再入国許可という大統領の保障は得ているはずである。
スーチー議員もこの日からひょっとしてと海外脱出を匂わせる。マスコミの嗅覚は鋭い。スーチー議員の日程・旅程裏づけが欲しくなる。同様にわがシンクタンクの作業も開始する。そして下記のことが見えてきた。
昨日5月29日(火)夕:ヤンゴン国際空港出発→バンコク空港到着
5月31日(木):タイのインラック・シナワトラ首相および前アビシット・ベジャジバ首相(現反対党のリーダー:クーデター軍事政権に近い保守派)との会談。スーチー議員は国境近くの難民キャンプに避難しているミャンマーの少数民族、およびミャンマーの出稼ぎ労務者との対話を希望している。彼らの窮状を調査し、法的な解決策を見出し、タイ政府と交渉して非人道的な取り扱いを改善する目的、などの断片が見えてきた。
スーチー議員の初の海外訪問地は実際問題、世界首脳および諸団体の間で争奪戦の様相を呈し、綱引きゲーム状態の真っ只中である。つい先週までは欧州のジュネーブ・オスロ・ロンドンなどが最有力候補と見なされていたが、ミャンマーの立地するアジアを最初の訪問地とすべきだとのアセアン地域リーダーからの執拗な説得を出発直前にスーチー議員が受け入れ、急遽バンコク訪問が実現した。その大義名分は今週末バンコクで開催される政治色の少ないWEF(世界経済フォーラム)に出席とされ、今度はWEFが世界の注目を浴びることとなった。
スイスの冬季高級リゾート地で毎年1月に開催される"ダボス会議"といえば世界の超エリートクラブだが、スーチー女史はそのゲスト・スピーカーとして2年連続で招聘され、音声テープのみで参加した2011年は歴史的な大事件となった。そして今年2012年の1月も2500名を超える世界のリーダー、実業界、学術界の大物たちが5日間のフォーラムに参加し、スーチー女史は映像付きのビデオで参加した。2年連続の招待とは準メンバー並みの待遇ではないだろうか。世界最貧国といわれるミャンマーの、しかもミャンマー国を代表する肩書きなど何一つ持ち合わせていない66歳のレディーがなぜこの超エリートクラブに?
今週末始めてバンコクで開催されるWEFはこの"ダボス会議"のアジア地区版で、スーチー女史は綱引き争奪戦の結果この会場が海外初デビューで公式スピーチも行うことになった。そのためのバンコク訪問である。
しかも、今年1月のダボス会議にはもう一つ信じられない事件が発生した。ミャンマー現役のウー・ソーテイン工業大臣(元の第1&2工業省が統合され、今は大臣は一人)が出席したのだ。
同工業大臣の経歴がベールに包まれている今、大臣には失礼な話だが、一見さんお断りの超高級料亭の華やかな会合に場違いな田舎出のおっつぁんが一人ぽつねんと座っている姿を想像していただきたい。
"もし"はタブーであるが、"もし"人生のボタンが掛け違っていなかったら絶対にありえない運命で光景である。すべては国からは何一つ肩書きを与えられていない唯のレディーの七光りのお陰である。
あのスリムでエレガントなレディーであれば世界のヒノキ舞台が実にお似合いである。"もし"そこにレディーが出席していたら、多分、ダボス会議の本来の議題などそっちのけで世界の著名人・国家元首から握手攻めに遭い、ツーショットの写真攻勢に遭ったことであろう。
スーチーさんはそのダボスのビデオ画面で語っている。
「皆さんのお集まりに私自身が出席できないことをまずはお詫び申し上げます。今は4月1日の補欠選挙参加の準備で手一杯のためお許しください。真の民主化に向かって努力し世界へ貢献できるよう努力しているビルマ国民を世界中の皆様が応援してくださるようお願いいたします。昨年のダボス会議から1年が経ち、その目標へ向かって歩を進めてまいりました。ですが、大変革のその到達点にはまだまだ遠く達していません。かといって、今私たちはその到達点に達する実に稀で貴重な機会を手にしています。真の変革への突破口となりうる最も大事な方法は我が国の選挙制度と法制化を成し遂げる政治力です」
今世界中はミャンマーを巡って踊らにゃソンソンで動いているが、スーチーさんが指摘するとおり、国内の法制化に目を向けると、実にプリミティブなところで足踏みしているのが現状である。
当然のことながら、法案が入念に準備され国会に提出される。下院・上院の両議会で議論して投票によって可決・否決が決定し、可決されると法制化され、そして国民に発表される。そのすべての過程において90%以上を軍関係で占める議会では未経験の作業ばかりである。"民主化"という掛け声でミャンマーは踊っているように見えるが、未熟な議会制度はどこから手をつければよいのか困惑しているのが現状である。かといって法制化されなければ、何一つ改革は実現されず、それゆえにスーチーさんは軍事政権にとってはトラの尾とも言える"憲法の書き換え"を要求している所以である。上院議長・下院議長それぞれを団長とする大量の議員団が、"民主化"の本場といわれる英国およびインドの国会見学にぞろぞろ出向いたのもそれを裏づけしている。全員がお粗末な一年生議員から構成される海外での国会見学でも、一年坊主の遠足に過ぎない。肝心なときには居眠りし、土産物屋で眼を輝かしたであろうことは容易に想像できる。明治新政府の意気込みと比べてみたい。
ラカイン州選出の議員(非軍人)は「自分たち自身の権利というものが分かっておらず、以前ほどの恐怖感は少なくなったとはいうものの、議会で本心を語って良いものやら躊躇してしまう」と本音を吐露している。そして議会に出席した初日、ひょっとして自分は逮捕されるのではとの恐怖を正直に記者団に語っている。
シュエマン下院議長は議員たちにどうか本心で議論を尽くしてくれと呼びかけているが、一年前には同国軍事政権第3位という強力で絶対的なパワーをもっていた下院議長の豹変ともいえる"開かれた発言"要請に議員たちが戸惑ったのも無理はない。
そして議席の4分の一は今でも濃緑色の軍服を着た軍人が陣取っており、形式的には軍服を市民服に着替えただけの元軍人議員も急速な変化には難色を示しており、その点を十分認識し今では改革派と呼ばれるテインセイン大統領とシュエマン下院議長の2名は、選挙前の時点でありながら、4月1日の補欠選挙で正式に議席を得て欲しいとスーチー女史へのラブコールを機会あるごとに表明していた。彼女の登場がどれほど重要で、本気で必要なのだと考えている証拠である。
しかし、考えてみると実に不思議な話で、補欠選挙で議席を占める前のスーチーさんは一政党のリーダーではあるものの、国会に一議席も得ていない政党のリーダーで、ただのオバサンに過ぎない。その唯の一婦人に対して一国の大統領そして下院議長までが直接ラブコールを呼びかけるとは。
話が脱線したようです。先へ進みましょう。
4日間のタイ滞在ののち、といっても今では超人気者のスーチー議員です。ここでも分刻みのスケジュールとなることでしょう。ほんの短い期間ヤンゴンに戻り、6月中旬に欧州へ向けてのセンチメンタル・ジャーニーが始まります。その日程の一端が見えてきました。
6月14日:スイス・ジュネーブのILO本会議場で注目のスピーチ。
6月16日:ノルウェー・オスロで世界が注目するノーベル平和賞授賞式でのスピーチ。
6月19日:スーチー議員の67回目の誕生日。
英国政府が正式に招待する国賓といえども上院・下院両議院でのスピーチはめったにないことで、女性としてはエリザベス2世女王のみとのこと。スーチー議員はその名誉あるスピーチを要請され受諾したそうです。しかし、英国政府の粋な計らいで、彼女の第2の故郷であるオックスフォードの大学街ではアレキサンダーとキムとのプライベート休暇を確保し、夫なき家族水入らずでのスーチー議員の誕生日にさせてあげたいとしています。
日にちは未定ですが、フランス国も負けてはいません。フランス革命の国には民主化の象徴スーチー議員が絶対に相応しいと、政府を挙げてスーチー議員をパリに拉致する国家戦略を練っている模様です。
当シンクタンクはロックバンドに関する情報は不足していますが、アイルランドのロックグループ"U2"のリーダーBONOがスーチーさんに捧げる"WALK
ON(歩き続けなさい)"という曲を書いており、ライブステージでは当時自宅軟禁中のスーチーさん支援を表明し、ステージのたびにその解放を訴えていたそうです。それに感謝の気持ちを表明するために、今回の旅程にアイルランドのダブリン行きが追加され、"U2"のライブステージでBONOとの対面が実現するとのことです。
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