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<ミャンマーで今、何が?> Vol.322
2019.8.14
http://www.fis-net.co.jp/Myanmar

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━━【主な目次】━━━━━━━━━━━

■ヤンゴンの歴史散歩〜その2

 ・01:“DAY2”の夜

 ・02:“DAY3”〜 コカイン日本人捕虜収容所

 ・03:アーロン捕虜収容所

 ・公式ツイッター(@magmyanmar1)

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・06:“DAY2”の夜

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彼とはかなり親しくなったが、まだお互いの仕事内容は詳しく分かっていなかった。
どんな仕事で何十回もミャンマーに出入りしているのか? そして何故私がヤンゴンに20年近くも住んでいるのか? お互いに興味深深だった。

“DAY2”の夜は、同氏のかっての部下二人を紹介してもらい夕飯をともにした。
ミャンマー人女性と、ヤンゴンに住む日本人男性である。
シャングリラ・プラザの地下で夕食を共にした。

ミャンマー人女性から名刺をもらい、話を聞いた。
二人を通じて、より鮮明にこの日本人の仕事も見えてきた。
今度は、私の番である。

西暦2000年から当地に住む私の名刺は特製である。
縦40cm横27cmの特大で、厚さも2cm以上ある。
紹介してもらった二人に、この特大名刺を広げて自己紹介した。
一流会社でない限り、普通の名刺ではほとんど目立たない。

コンビニ的簡易な自己紹介はしたくない。
肩書きのない名刺だが、20年近い歴史の集大成である。

無口で口下手な私は要領が悪い。
ビール一杯を飲み干す時間では、終わらない。
もう一杯追加注文した。

こうして“DAY2”の夜は終わった。



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・07:“DAY3”〜 コカイン日本人捕虜収容所

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ハイヤーを終日借り切ったので、時間はタップリあった。
この日は、殉難者記念日の前日に当たる。
その主人公であるアウンサン将軍記念館に向かった。

カンドウジー湖畔を離れ、ハイヤーは日本大使公邸裏山の横道に入っていった。
記念館前には銃を持つ兵士やセキュリティが屯し、ゲートは半開きで制服組が忙しく出入りしている。その向かいには上司らしい私服が椅子に座り、厳しい目つきで監視していた。

「1945年5月1日ビルマ軍がラングーンに入った。5月2日英印軍がラングーンに入った。
寸断され、ばらばらになった日本軍はビルマ平原東部の山岳地帯に逃げ込んだ」、と『アウンサン物語2015』には記述されている。

その1945年5月から32歳の生涯を閉じた運命の1947年7月29日まで、アウンサン将軍はこの大邸宅に住んだ。その歴史がこの記念館に凝縮されている。
2歳1ヶ月の幼きアウンサンスーチーは、父親の虐殺を覚えていない。

観光客らしく振舞った。大げさにカメラを構えたが、咎められなかった。
“BOGYOKE AUNG SAN MUSEUM”の文字板の真下で、ついでにテント内の駐屯兵もワイドに盗撮して、記念撮影は完了した。
翌日の殉難者の日は、一般に無料開放される。例年、何時間待ちの国民が長い列を作るヤンゴン名所がこの記念館である。

ハイヤーなので、今日は車を贅沢に使用できる。
次に向かったのが、インヤ湖畔のインヤ・レーク・ホテルである。

当時ビルマを統治していたイギリスはラングーン市内に水を供給するため1882年から1883年にかけて人造湖を作った。それがインヤ湖である。行政当局は気楽にビクトリア湖と命名した。
大英帝国の頂点に君臨したイギリス女王の名前である。

さらには地下で水道管を繋げてダウンタウンに近いカンドウジー湖に水を溜めた。これもロイヤル・レークと命名した。同じく人造の貯水池である。

このメルマガでは、イギリスは老獪で残虐と指摘する。だが、インフラ整備とかダウンタウンの街づくりでは見事なほど近代的な都市計画を見せてくれた。人権問題は別として、イギリスはビルマの近代化には大いに貢献した。だから単純にコンビニ的に善悪を判断するのは止めよう。植民地政策といっても中身を吟味する必要がある。

冷戦の緊張が高まる中、ソビエトのフルシチョフは第三国との友好を深めていた。そして1956年フルシチョフはミャンマーに国賓として招かれた。ウ・ヌー首相の社会主義時代である。そのときの手土産がこのインヤ・レーク・ホテルであった。

今は忘れ去られているが、テニスコートやプールを備えたこの緑溢れるインヤ湖畔の贅沢な27エーカーのホテルはフルシチョフの置き土産である。ソ連最高のデザインと技術の粋を駆使して1958年から5年の歳月をかけて建造された。そして1962年10月にオープンした。

1962年といえば、3月2日ビルマ国軍によるクーデターが決行され、ウ・ヌー政権は倒され、ネウィン将軍を議長とする革命評議会が全権を握った。それからこの国の経済はボロボロになるまで迷走していく。

その独裁軍事政権下の1975年のことである。
ソ連の援助で建てられたこのホテルは、外国人も泊まれるラングーンでは数少ない社交場であった。映画以外の娯楽がほとんど許されないラングーンで、外国人が待ちに待ったクリスマス・イブの出来事だった。

外交団の男女に、ビルマ政府高官やその子弟が加わって、ロックのリズムが大音響で響き、皆は躍り騒いでいた。そこへ大男が護衛を連れて飛び込んできた。大男はドラマーからスティックを奪うとドラムを突き破った。「何度命じたら分かるんだ。即刻全員立ち去れ!」と大声で怒鳴った。皆は恐れおののき、逃げるように立ち去った。内緒の話だが、その中にはネウィンの息子もいたというウワサもある。

インヤ湖の北東岸にこのホテルは位置する。ネウィン邸は対岸というより、もっと真近かな北の湖畔にある。湖上を渡ってくる騒々しい音楽はネウィンの神経を逆なでした。

このエピソードの現場のホテル湖岸に立って、あの辺り一帯がネウィンの大邸宅で、アウンサン虐殺の黒幕である元首相ウ・ソウの屋敷もある筈だと日本からの友人に説明した。

前段が長すぎたが、この友人に説明したかったのは、ネウィンやウ・ソウの住むあの一帯が、日本人捕虜収容所があったコカイン地区ではないかと推定されたからだ。

今回の旅の目的は、敗戦直後に日本人が捕虜となった収容所である。
それはヤンゴンに2ヶ所あったと言われている。
ひとつがコカインで、もうひとつが会田雄次の著書で有名なアーロン捕虜収容所である。

コカインと名前のついた有名なスウィミング・クラブがサヤサン通り裏手の高級住宅街にある。
メンバー以外入館が厳しいそのクラブにも行ってみたが、捕虜収容所の痕跡は見つからなかった。この周りを徘徊して、戦前から営業しているというレストランの二代目経営者にも面会したが、父親は他界し手がかりはまったくつかめなかった。

そこで向かったのが、コカイン・スウィミング・クラブとはインヤ湖を挟んで反対側に位置する北岸一帯である。その前に、インヤ・レーク・ホテルに立ち寄り、湖岸の“旅人の木”近くで、もうひとつ別の捕虜収容所の推定位置関係を説明した。

話は逸れるが、“旅人の木”はマダガスカル島原産で、大きな葉っぱはバナナの木に似る。樹高はバナナの二・三倍にも育つ。幹と葉をつなぐ長い葉柄は水をたっぷりと蓄えており、強烈な太陽光でカラカラになった旅人の喉を潤してくれる。そして扇状の葉っぱは太陽の軌道に従い必ず東西に向くといわれる。旅人の羅針盤となったことから、“旅人の樹”と名付けられた。

別の調査では、コカイン捕虜収容所はインヤ湖畔北岸、その北側には鬱蒼としたゴムのプランテーションがあり、大きなアリ塚があった。このアリに噛まれると、大変なことになり、中には入らなかった。湖岸一帯は家畜が放牧され、家畜はこの水を飲んだと情報は伝える。

すると、ネウィン将軍およびウ・ソウ元首相の住むこの一帯が怪しい。
だが、この一帯は一般人が長いこと近づくことを厳重に禁止していた。ハイヤーの運転手も興味深深で、行ってみましょうと言ってくれた。

インヤ湖の北岸を東西に走るパラミ通りから入り口を探ってもらった。
鉄条網が巻かれた赤白の通行止めが幾つか無造作に片付けられている。セキュリティはいない。
ここに間違いないと、運転手と確認し合いながら、小道を入っていった。

長い頑丈な白壁が続き中は覗けない。壁の上には鉄条網の筒が連なる。尖ったガラスの破片で防御してあるところもある。監視カメラが作動している。確かに豪邸ばかりだ。湖畔とはいっても奥が深いので湖面は見えない。24時間監視するため歩哨の詰め所が角々に建っている。カービン銃がいつ炸裂してもおかしくない。そんな雰囲気だ。緊張する。

ここに居を構える元首相ウ・ヌーはアウンサン将軍暗殺直後に逮捕された。屋敷裏の湖から大量の武器弾薬が防水加工された木枠に収められ発覚したからだ。
運転手に車を止め聞いてもらったが、人通りがほとんどない。やっと人を見つけても、怪訝な顔をするだけで、応えてもらえなかった。不審者と思われるのも当然だ。僅かに開いた玄関口から、異常に広大な駐車場が覗ける。

明らかにネウィン将軍家族と思われる大邸宅も通り過ぎた。竹やぶを通り越すと、通行止めの行き止まりとなっている。例の鉄条網を巻いた赤白の通行止めが置かれ、駐屯所があった。下手に尋問されるとヤバイので、Uターンし、極力ゆっくりと来た道をもとに戻った。

日本から来た友人に、果たしてここが日本人捕虜収容所があったコカイン地区だと納得してもらえるだろうか? 自信はない。家畜の放牧場で糞尿処理場跡地に、あの傲慢なネウィンが自分の屋敷を建てるものだろうかとの、疑問は残る。

一方で、子供の頃親しんだ世田谷赤堤の四谷軒牧場付近はマンション群に、新宿の淀橋浄水場は新宿新都心に変貌している。日本とミャンマーではもちろん異なる。だが、80年という歳月の流れは同じ尺度だ。



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・08:アーロン捕虜収容所

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良識のあるミャンマー人ならば決して近寄らない、インヤ湖北岸を後にした。
サミット・パークビュー・ホテル、そしてインターナショナル・ホテルの前を通って、そのまま真っ直ぐ、ヤンゴン川に突き当たるように直進してもらった。

この大通りが、今でもアーロン通りと呼ばれている。
ここは間違いなくアーロン捕虜収容所の跡地である。
友人はヤンゴン出発前に会田雄次著『アーロン収容所再訪』を一読した上での来緬である。

会田雄次の再訪時期は昭和49年(1974年)で、その当時ですら、収容所はすでに存在せず、様相はすっかり変わっていたとしている。
だが、我々は我々の作法で追跡してみた。

アーロン通りを直進して、ヤンゴン川に近づいたと思ったところで、厳重なセキュリティにまたしても停車を命じられた。駐在所があり、これより先へは進めないという。末端の兵士や制服組と押し問答するのは時間の無駄だ。ハイヤーの運転手に通訳してもらい。ここの最高責任者に面会したいと申し入れた。このセリフはどこの世界でも効果がある。
態度が変わった。ゲートを開き、ハイヤーは直進できた。

何のことはない。ここは港湾施設地区だった。
コンテナ・シャーシーがゆったり交差できる舗装道路が左右に走っている。すぐ右には構内に入る大型車両やトラックの検問所があった。だから、一般車両はここで行き止まり。
左方向はヤンゴン川に沿って下街に至る。暫く進むと広大な荒地が右手に見えてきた。そのはるか彼方にガントリー・クレーンが放置され、廃屋となった倉庫が彼方の散在している。水の流れは見えないが、ヤンゴン川は右手から左手にゆったりと流れている筈だ。

この荒地は雑草だらけで、今の時季、あちこちに水溜りができ、中に入るとずぶずぶと足をとられる。歩行は不可能だ。それだけに、ここは糞尿処理場だった、埋立をして広大な港湾施設が出来上がるといわれても納得できる、むしろその雰囲気が想像できた。日本の友にも納得してもらった。広大な敷地でピンポイントに特定できないが、アーロン収容所はここに間違いないと私も信じている。

お父上を偲んで、お好きだったというビール缶を取り出し、厳かにこの荒地に注いだ。献酒である。あのヤンゴン川向こうに沈む太陽を父上も眺めていたことだろう。
日本へ帰国前の一年間この場所に抑留されていたと想像すると、日本とビルマの歴史は今も滔滔と流れている。

この日の最後はシュエダゴン東門近くのペントハウスで、美味いワインとチーズ、そしてカレーライスをタップリとご馳走になった。

驟雨が去り、また襲ってくる、真近かに仰ぐライトアップされたシュエダゴン・パゴダは薪能を鑑賞するような幽玄の世界であった。

まだ続く、続きは次週としたい。


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