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<ミャンマーで今、何が?> Vol.218
2017.6.5
http://www.fis-net.co.jp/Myanmar
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■ミャンマーの今から、歴史探訪が始まる
・01: 東西南北
・02: 武装グループの出欠
・03: 中国の影響力
・04:会議は踊る
・05:会議は延々と続く
・06:今と歴史は裏表
・07:ミャンマーの歴史を語る
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01: 東西南北
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本当に良く降る。
トタン屋根に叩きつける雨音が心地よい。雨音をしばらく楽しんでから起床する。
時間はピッタリ午前2時。コーヒーを沸かしながら、読み止しの本を開く。
梅棹忠夫著「実戦・世界言語紀行」である。
両目を失明しても無数のマイノリティ言語に挑戦するこの碩学の気力には驚嘆するが、ワタシの話は常に横道に逸れる。
この本は赤い表紙の岩波新書である。
表紙をめくると、"著者名と書名"が 二段書きで、「四角い飾り罫」の中に配されている。
その「四角い飾り罫」の四つ角にはギリシャ神話の風神がそれぞれ描かれている。
左上の角はboreas(北風)、左下がzephyrus(西風)、右下がnotus(南風)、右上がeurus(東風)と一周する。古代ギリシャの人たちが四つの風神を採用したことに興味が沸く。が、岩波図案の真の意図は分からない。
子供時代から、地図には魅せられた。
世界地図は、何時間ながめても、興味が尽きない。
地球の果てまで行ってみたいと夢は膨らんだ。
地図の真ん中を赤道が横に走っている。0度の基準線だ。上が北半球、下が南半球。
北半球は北緯90度で行き止まり、南半球も南緯90度で行き止まり。
それが不思議でしょうがなかった。縦方向の南北には限度がある。
では、と目線を横方向に転じる。
太平洋を縦に180度の線が走っている。
東回りでも、西回りでも、180度を境に数字が少なくなっていく。そしてどちらも0度に到達。
0度から再出発してみた。右回りで東経180度へ、左回りで西経180度へ。
東経180度も、西経180度も、同じ一本の線である。
数字のトリックに完全に魅了された。
東西南北とは、ワタシを惹きつける不思議な言葉となった。
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02: 武装グループの出欠
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第2回ミャンマー連邦和平会議は当初予定の5日間に29日(月)が追加され、合計6日間の会議となった。全国規模の大会議で、討議が熱を帯びたからとも言えるし、最終合意を得られなかったからとも言える。
スーチー自身と大統領政府には管轄権のない中央政府軍との摺り合わせを、ミンアウンライン最高司令官と行い、和平会議への特別招待状を8つの武装エスニック民族にも送付した。
参考までにこれらグループは:
01: The United Wa State Army (UWSA)
02: The Kachin Independence Organization (KIO)
03: The Arakan Army (AA)
04: The Ta'ang National Liberation Army (TNLA)
05: The Myanmar National Democratic Alliance Army (MNDAA)
06: The National Democratic Alliance Army (NDAA)
07: The Shan State Progress Party (SSPP)
08: The United Nationalities Federation Council (UNFC)
の8武装エスニック民族である。
これら強硬派グループは、過去の苦い経験から、政府軍=中央軍事政権を頭っから信用していない。過去には指定された和平交渉会議にエスニック首脳が集合すると、待ち伏せした中央政府軍が全員を殺戮殲滅することもあった。当時の軍情報局は情報統制を行っていた。事実はもみ消された。透明性とはほど遠い状況が、過去には続いていた。
したがって、チン州、カチン州、シャン州などジャングル内での和平交渉は、双方に取り危険な場所であった。そこで隣国政府の協力を得て、というよりも隣国地方政府が主導権を握り、漁夫の利を得る状況でもあった。その結果が、自国外のチェンマイや中国雲南省・国境の街での会談となった。
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03: 中国の影響力
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シャン州のWa族はケシの栽培で軍事費を賄っていると言われている。強力な軍隊を持ち、中国語が通用する。しかも、武装Wa族は地対空ミサイルなどの近代的武器も備えている。誰が支援しているか、ミャンマー国軍は熟知している。スーチーも知っている。今回、北京での"一帯一路フォーラム"で、習近平主席から中国は協力を惜しまないとスーチーは耳元で囁かれた。
それでなくとも、北の国境地帯はマンダレーまでは中国経済に支配されていると言われて久しい。その恐怖心から、ミャンマーの軍首脳はタンシュエに忠誠を誓う平凡な将軍を大統領に据え、米国および国際社会の気を惹く作戦に切り替えたと、海外のマスコミは報じてきた。それがテインセイン政権の登場であった。
話を戻そう。6月2日(金)のGNLM紙第3面下段には、中国中央軍事委員会メンバー兼中国人民解放軍統合参謀トップのFang Fenghui将軍を外務省の公邸にて、柔かな笑顔で迎える外務大臣スーチーの写真が掲載された。"一帯一路フォーラム"での悪魔の囁きが現実味を帯びて思い出される。こう言うことだったのかと。
続けよう。同紙第6面には大統領府にて中国のFF将軍と握手を交わすミエンスエ上級副大統領の写真が掲載され、"ミャンマー国内の和平交渉について"話し合ったと記述されている。同副大統領はミャンマー国軍最高位レベルの元将軍である。軍事方面のことなら、軍事素人のスーチーより遥かに具体的な会談であったと想像できる。
シツコク同紙第9面をご紹介したい。
今度は、ミャンマー国軍のミンアウンライン最高司令官が正装させた儀仗兵の栄誉礼で同将軍を歓迎している写真である。中国およびミャンマーの軍事最高責任者の間で何が話し合われたかキチンと記述されている。
話題のポイントは、ミャンマー国内全土における「停戦協定(NCA)」となっている。
両国の安全と安定のために中国とミャンマーの国軍が協力すると記述されている。
賢明な読者は、どうしてミャンマーの国内問題に、中国が嘴を挟むのか?と疑問を持たれるだろう。そこである、ポイントは。ミャンマーの北部および国境地帯は、中国の影響下に抜き差しならぬところまできていると読むべきではないだろうか?
マンダレーの街並みは、どこに行っても中国語の看板で、まるで中国の都市みたいだった、という報道の話はした。日本のマスコミも気楽にそのような報道を流していた。そこを思い出してもらいたい。
スーチー新政権にとって天下分け目のイベントである第2回ミャンマー連邦和平会議が完全合意に至らなかった"今"の時点で、"今"のタイミングで、なぜ中国の人民解放軍トップがネイピードを訪れたのかは、非常に興味を引く話題である。
もうひとつオマケに書き足すと、5月27日GNLM紙によれば、中国人民解放軍からミャンマー国防軍に対して機関車と客車10輌が贈呈され、ミンアウンライン最高司令官がネイピード出の引き渡し式に列席している。
話は横道に逸れたようだ。話を和平会議に戻そう。
上記リスト01〜07の少数民族合計7グループは5月23日午後それぞれ空路でネイピード入りし、6日間の会議に参加した。08:UNFCのみは5月22・23日、タイのチェンマイにおいて中央執行委員会が開催され、出席は不可能と回答してきた。
この7グループを含めてほとんどの関係者を和平会議の全体会議に着席させた功績は、歴史的にも、そして血脈的にも、スーチーの存在にあると東西南北研究所は評価するが、読者の皆さんはいかが判断しますか? テーブルに着いた後で、お互いの言い分を聞き、相違点・同意点を整理していく。まだ端緒である。
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04: 会議は踊る
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和平会議の開催を歓迎・祝福して、大統領府は5月23日に受刑者186名の恩赦を発表した。同じく恩赦として、外国人受刑者73名の国外追放を発表した。
5月24日午後、ネイピードのミャンマー国際会議センター2で開幕式は行われた。
開幕式の主だった演説内容は英文日刊紙GNLMに掲載されている。ミャンマー議会の下院議長そして上院議長、和平会議の主催者であるスーチーの演説、ミンアウンライン国軍最高司令官、最大野党USDP議長、KNU議長などである。スピーチ内容は、その人物の識見、立場、品格によってそれぞれ異なる。
最高司令官の演説は、国軍の正当性を主張して、平和の大義名分は唱えるものの、少数民族代表の要求は過分であるとして、国内統一のため憲法を遵守しろと説く。この場合の憲法とは軍人グループが作成した2008年憲法を指す。当然参謀が用意した原稿だろうが、交渉相手を慮る姿勢が見えてこない。過去の軍部が武装反政府グループに対したスタンスもこんなものであっただろう。
スーチーはビルマの独立から説いて、どうして現状の複雑な状況に陥ったのか、整理して説明するので分かりやすい。そして、立場立場によって言い分はあるだろう。その長く待たれた機会が今回の全国的な代表会議である。苦しい困難な問題も出てくるだろうが、それをこの場で徹底的に討議していただきたい。議長として公正さを保とうとする姿勢が見えてくる。
まだNCA(全国停戦協定)に署名していない武装グループの参加は大歓迎である。門戸は開放されている。紛争地帯から逃げ出した大勢の同胞がいる、そして次の若い世代に同じ苦しみを残さないためにも、お互いの違いを主張するのでなく、合意できる点を見出そうではないか。ビルマは独立以降、混乱に陥り、紛争は続いている。すべては国民一人一人の意思にかかっている。本当に一人一人が強く望むのであれば、和平協定は可能である。
実はこの全国会議には、数多くの委員会、共同作業分科会などが、設立されている。和平会議と言っても、論点はいくつにも分けられる。それが、政治部門・経済部門・ソーシャル部門・領土自然環境部門・安全保障部門の5大部門に集約された。さらに5大部門それぞれで問題点を絞り込む。気の遠くなるような作業を、お互いの不信感からスタートして、一つ一つ賛否を整理していくのである。ドナルド・トランプ好みの一対一の単純な交渉ではない。宗教一つとっても仏教徒・クリスチャン・アミニズムと多彩だ。民族が異なるから、要望事項も異なる。
イラワジデルタのように多岐に枝分かれした分科会の議長からは、そのメンバーおよび手順などがそれぞれに説明される。
そして、ここが重要なのだが、その日の会議が終了すると、何が討議され、何が合意されたかを担当議長から記者会見を通じて発表され、質疑にも適宜回答される。スーチーが言う、説明責任、情報の透明性は、ひとつひとつ実行されているようだ。
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05: 会議は延々と続く
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今回の和平会議には約1,400の代表が参加した。
この数にはミャンマー政府側の代表も含まれている。政府側の代表というと、一枚岩に纏まっていると思われがちだが、そうではない。
何度も説明するが、スーチー政権とミャンマー国防軍はイコールではない。そして、中央政府の担当省庁と地方政府の省庁でも立場が違う。それぞれに立法・司法・行政部門を抱えている。
少数民族側からすれば、交渉する相手は、中央政府でもあるし、個別にシャン州政府でも、カチン州政府でも、ラカイン州政府でもある訳だ。それを選出された議長団は、纏めるので、神経を使う仕事である。言ってみれば、お互いに勝海舟であり西郷隆盛である。
そこのところを、海外のマスコミは、完全合意に至らなかったとして、スーチー政権の無能さ、無力さのせいにするが、その報道姿勢はマチガッテいる。ビルマ独立後、初代の ウ・ヌー政権以後70年近くにわたって、この国を混乱と不信に陥し入れた 悪の根源は、歴代政権であり、その大半は軍事政権にあった。それを誕生して僅か一年のスーチー&ティンチョウ政権にすり替えるとは、ジャーナリストも地に落ちたものである。
繰り返すが、このメルマガは「英語のプロ」を目指すもので、政治評論家や、政治予想屋ではない。英語の論理的な作法に従って、ミャンマーに関する英文記事を分析して、その見解を発信しているだけである。だから、スーチーに肩入れするのでも、軍部に肩入れするのでもない。どちらの話が筋が通っているかを吟味しているだけである。あくまでも「英語のプロ道」の修行の一環としてである。
な〜んだ"英語屋"の独り言かと無視していただいて結構。だが、"政治評論家"や政治予想屋"に成り下がるつもりは毛頭ない。そこのところをご理解いただきたい。そうでなければ、アナタの貴重な時間をムダにするだけだ。
またまた横道に迷い込んだ。本題に戻ろう。
大会で合意されたのは、政治部門(12点)・経済部門(11点)・ソーシャル部門(4点)・領土自然環境部門(10点)・安全保障部門(ゼロ)の合計41の問題点のうちの37点である。これをベースにミャンマー連邦の平和協定が最終的に締結されるものと期待されている。
すべては先ず始まったばかりである。
出席者がラウンド・テーブルに着席し、議長団の選任から、どういう風に議事を進行するか、記録に残す場合の文言はどうするか、協定合意書としてどのグループが署名できるか、などが取り決められた。
中には単にオブザーバーとして出席した代表団もいる。スーチー政権やミャンマー政府軍の発言を慎重に観察しているのである。そこに「信」がおければ、停戦合意書に署名して全国和平会議に参加すれば良い。だからこそ、スーチーは開会の辞で、ドアは閉ざしていない、常にオープンだと、ミャンマー全土の武装勢力に呼びかけた。
何度も繰り返すが、スーチーの凄いところは、交渉の経緯・成果をすべてオープンにさせ、記者会見を開き、質疑応答にも応じさせるルールを確立させたことにある。これまでに何度、停戦協議がなされたかは知らない。だが、当時の軍事政権からは公平な報道はなされなかった。その手法では、永遠に合意はなされなかったであろう。だが、スーチーは「透明性」という手法をミンアウンライン率いる軍部にも浸透させた。これによって、武装反乱グループも、この新政府ならと、徐々に信頼するような雰囲気を醸し出している。それが今の段階である。
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06: 今と歴史は裏表
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「ミャンマーで今、何が?」の「今」は、歴史とは裏表のようなもので、歴史の積み重ねの上に成り立っている。だから、「今」をテーマに掲げるとは言え、ミャンマーの歴史を無視することはできない。その辺りのヒントを実は前回プロバイダーの社長から頂いた。
その筆法に倣うとすれば、今回の和平会議で面白い(不謹慎だが)のが、大英帝国によって廃位させられたビルマのラストエンペラーの血統が全く考慮されていない。すなわちビルマを植民地化したイギリスおよび日本の伝統の皇室を無視している。むしろアメリカのように、民主主義と連邦制度に基づく連邦国家を最初から目指している。
そこで、この大会の最大の争点で妥協できなかったのが、「地方政府の分離独立」を認める文言を協定書に記載するか否かであった。
中央政府としては、これは認められない。これを認めれば、ミャンマー国内に中央政府の主権が及ばない領土が虫食いのように出来上がる。
一方、少数民族側からすれば、中央政府とこれから交渉する際に、どうしても飲めない問題が発生した場合に、停戦協定書に署名して武器を放棄すれば、自分たちの安全を保障するものを失う。従って、合意に至らぬ場合は少数民族側は連邦から分離独立するという主張である。
実はこれは新しくて古い問題なのである。
1947年に独立憲法が起草された時に、"secession"(分離独立)の文言が挿入された事実があるからだ。
前にも述べたが、アウンサン将軍にとって、大英帝国からの独立は国民の悲願であった。その前提条件として、山岳高原民族の一致した合意を取り付けることを英国側から突きつけられた。
そこで、20世紀のパンロン会議においては、ビルマ連邦成立後10年経っても不満なら、非ビルマ民族はビルマ連邦から分離独立すれば良いではないかというのが、この分離独立文言の主旨である。
だから、コトは単純ではない。
アメリカ合衆国独立時のリパブリカンとフェデラリストの激しい討論のように、136の民族を抱える苦悩をミャンマーとしては何らかの英知を絞り出して解決せねばならない大問題なのである。
あの大英帝国ですら北と南のアイルランド問題に長いこと梃子づった。イスラエルとパレスチナの問題も未だもって解決されていない。ミャンマーという国にとっては、一国が統一されるかどうかという、それらに匹敵する大問題なのである。しかし、国外のマスコミは、ミャンマーの経済発展が停滞し始めたと、その責任をスーチー政権に負わせている。本当にそうなのだろうか?
KIA(カチン独立軍)とは、最も強力な武装勢力の一つと言われてきた。そのKIAを含む北部武装7グループは連邦政治対話委員会を形成し、5月23日にネイピード入りし、中国の仲介で同会議に参加し、27日に中国雲南省昆明経由で地元に戻っていった。途中退場の形なので、協定書類には署名していない。だが、対話は続けると約束し、近々の再訪問を示唆している。不信感を一夜で拭いさるのは不可能だ。
主催者であるスーチーも昼食・晩餐会や会談を個別に、あるいはグループ毎に設定し、そのスケジュールは目白押しであった。27日午前午後は、代表団にネイピード近辺の観光旅行も用意された。
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07: ミャンマーの歴史を語る
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昨年のクリスマスだった。
ロンドンに住むシャン州出身の友人から、ラミネート加工されたイングランド銀行発行の5ポンド新紙幣をプレゼントされた。
表はエリザベスII世女王の顔写真と透かしが入っている。裏はウィンストン・チャーチル卿の写真で、「血、努力、涙、汗以外に捧げるものはない」と国家に貢献した彼の有名な文句が印刷されている。
そしてノーベル文学賞受賞者と記載されている。
チャーチルはヒットラーのロンドン大空襲を耐え忍び、第二次世界大戦を勝利に導いたイギリスの英雄である。だから、イギリスの新紙幣の肖像に採用された。
だが、この英雄が戦争直後(1945年)の総選挙で、アトリー労働党にまさかの敗北を帰した。アウンサン将軍がロンドンに飛んだのは1947年1月。そして歴史に残るビルマの独立を確約するアウンサン=アトリー協定を締結した。
だが、チャーチルが1945年の総選挙で勝利を収めていたら、ビルマの独立はもちろんインドの独立も絶対に不可能であったと言われている。その根拠は、チャーチルがガチガチの植民地主義者で、アウンサンとガンジーを徹底的に嫌っていたからだ。イギリスでは英雄でも、ミャンマーの評価は反対である。
そういう意味でも、アウンサンは強運であった。アトリー首相を相手にできたアウンサンはラッキーであった。アウンサンを指導者に持ったビルマもついていた。そして20世紀のパンロン会議をまとめ上げた。そこでアウンサンの運は尽きる。1947年7月19日、アウンサン以下8名の閣僚たちが非業な死を遂げた。
だが、ビルマは翌1948年1月4日独立を勝ち取った。
大英帝国の国旗が降ろされ、ビルマ連邦の初代大統領にシャン州の藩王サオ・シュエタイ、初代首相にウ・ヌーが就任した。その後国内は混乱状況に陥っていく。
1962年3月の軍事クーデターでは、サオ・シュエタイの自宅が包囲され、サオ・シュエタイが逮捕された。このクーデターの被害者は抵抗した17歳の息子ただ一人であったと言われている。サオ・シュエタイが同年11月獄死すると、家族は翌1963年10月隣国タイへ逃れ、夫人はその地でシャン州の独立闘争に従事した。シャン州軍(SSA)やシャン州戦争評議会(SSWC)の創設に尽力し、SSWCの議長に就任した。同夫人は2003年亡命中のカナダで86歳で亡くなっている。
これはミャンマー少数人族のほんの一部の歴史である。
136それぞれの民族にそれぞれの歴史があるだろう。国外にいるミャンマー人は日本のオーバーステイだけではない。軍事政権によって国外追放された同胞は、世界中に散らばっている。日本人が考える経済出稼ぎだけではない。軍事政権から迫害された民族が沢山いる。見方によっては、その代表が今回ネイピードに集まった武装グループかもしれない。
次のミャンマー連邦和平会議は6ヶ月後に予定されている。
この国の経済発展を真に望むなら、国内の平和・安定が一番である。それをスーチー政権は目指している。
日本から進出した工場が長期にストライキで操業停止に追い込まれたり、爆破されたり、それは海外ニュースで目にする光景だ。
彼らの代表が、今回ネイピードに集まった。そしてスーチーが音頭を取り議長に就任した。合意できた点もあれば、合意に至らなかった点もある。それを重箱の隅をつつくように、すべてスーチーのせいにするのは、ジャーナリストとして卑怯ではないだろうか?
今スーチーを引きずり下ろせば、サオ・シュエタイ大統領、ウ・ヌー首相以降の混乱状態にミャンマーは舞い戻るような気がする。
東西南北研究所
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